富士川の合戦

出足の遅い平家方

頼朝が伊豆で反乱を起こしたという知らせは、9月5日福原の平清盛のもとに届きます。

「頼朝?はて…そんな者がいたかろう」

何しろ平治の乱は20年前の出来事です。清盛も始めはピンと来なかったことでしょう。

とにかく平維盛、忠教を大将軍に藤原忠清を侍大将にして討伐軍が編成されます。しかし危機感があるのか無いのか…平家方の動きは実にノンビリしていました。

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9月22日、討伐軍は福原を出発し、京都へ入りますが、侍大将の藤原忠清が、「明日は吉日でない」「この日は縁起が悪い」などと言ってもめたため、出発が遅れ、ようやく京都を出発し東国へ向かったのが9月29日でした。

またこの年1180年(治承4年)は記録的な飢饉で食料の調達が間に合いませんでした。よってロクな軍勢を集められず、道すがら食料や兵卒をかき集めながら進んでいきました。なので平家軍の士気はとても低いものでした……

一方、房総半島にわたった頼朝は、平家に不満を持つ房総半島の豪族たちを味方につけ、勢力をふくらませながら、10月6日、先祖伝来の源氏にゆかりの地である鎌倉に入っていました。

水鳥の羽音

治承4年(1180年)10月20日。

平維盛率いる平家軍は駿河国富士川の西岸に。源頼朝および頼朝と同盟関係にある甲斐源氏の武田信義の軍勢は富士川東岸に布陣していました。明日を合戦と定めたその夜の夜半ばかり。

富士川の合戦
富士川の合戦

武田信義の軍勢が背後から平家軍に奇襲をかけようと軍勢を動かします。

ザッザッザッ…

その軍馬の音におどろいたのか、富士の沼に群生していた水鳥たちが、バアーーーッ一度に飛び立ちます。

「ん?はっ?あっ…敵の奇襲だ!おい奇襲だ!回り込まれたー!!」

平家方は大混乱となります。

あまりにあわて騒いで弓取る者は矢を知らず矢取るものは弓を知らず、人の馬には我乗り我が馬をば人に乗らる。
『平家物語』

または杭に馬をつないだまま駈け出してしまい、バカラッバカラッとかけまわるというマヌケな場面もありました。

近くの宿場町から遊女たちを招いて歌ったり音楽を奏でてお酒を飲んですっかり寝ていましたが、この騒ぎの中、ある者は頭をうち割られ、ある者は腰をふみ折られてさんざんなことになりました。

平家軍は源氏の挙兵に対し、戦わずに逃げ出すという大失態を演じました。以後、平家は滅亡への道をひた走ることとなります。

黄瀬川の兄弟

頼朝軍は鎌倉に引き返すということで、その夜は黄瀬川の宿に逗留していました。戦勝記念の宴会なんか開かれてたかもしれませんね。

そこへ、足柄の山をくだって、街道ぞいにえっちらおっちら駆けてくる一団があります。

「あれが黄瀬川の宿の明りか。くっ、富士川の戦はもう終ってしまったらしい」

20人ばかりの供回りをつれたその若者は、頼朝の逗留している宿の前に立って、

「兄上の旗揚げときき、奥州の藤原秀衡殿のもとからはせ参じました。九郎義経と申します」

「なに?九郎が訪ねてきたと?ふむふむ、うん、その容貌ならば九郎に相違ない。通せ」

こうして、黄瀬川の宿で兄弟20年ぶりの再会となります。

「九郎、顔を上げよ」
「はっ、兄上」

「ああ…見れば亡き父の面影もただようようじゃ。それにしても九郎、お前がはるばる奥州からはせ参じてくれたことは、その昔我らの祖先八幡太郎義家が奥州で苦戦の折、弟の新羅三郎義光が官職を投げ打って助けに来たことをも彷彿とさせる」

頼朝は涙ぐみ、義経を抱きしめ、いたわりました。

次回「源頼朝と鎌倉」に続きます。

解説:左大臣光永

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