江戸の町づくり(ニ)利根川東遷事業ほか

家康の死と日光東照宮造営

元和元年(1615)徳川家康は大阪の陣で豊臣方を滅ぼし、翌元和2年(1616)息を引き取りました。

「わしが死んだら遺骸は久能山に納めて神にまつれ。一周忌が過ぎた頃、日光山に小さな堂を建ててわが霊を勧請せよ。関八州の鎮守となろう」

それが家康の遺言でした。遺言に従って、はじめ駿河の久能山に埋葬され、一周忌を待って、日光山に遷されました。

当初はごく簡素な建物だったようですが、三代将軍家光の時、改築され(寛永の大造替)荘厳な寺院に生まれ変わります。

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吉原

さて江戸は自然発程的に生まれた町ではありません。家康の江戸入府以来、多くの人夫や職人を集めて急ごしらえで作った町です。自然と、ひずみが生まれます。その一つが、男ばかりであるということでした。自然、そのほうの処理が問題になります。

家康が没した翌年の元和3年(1617)庄司甚右衛門が江戸各地にある遊女屋を集めて遊郭を作ることを願い出て許可されました。所は葺屋町(ふきやちょう)東隣(現中央区人形町付近)。

葦(よし)の群生する湿地帯を埋め立てたので葦原としましたが、後に字を縁起のいいものにあらためて、吉原としました。

明暦3年(1657年)の大火により日本橋の吉原が焼失すると、幕府の命令で吉原を浅草千束(ちづか)村(現台東区千束)に移すとととなりました。これが新吉原です。対して移転前の日本橋の吉原は元吉原といいます。

吉原神社
吉原神社

吉原 見返り柳
吉原 見返り柳

以後、昭和33年売春防止法により廃止されるまで新吉原は続きました。

慶長天守から元和天守へ

その後、秀忠は家康の築いた慶長天守を壊し、新たな天守を築きました。これを元和天守といいます。家康の慶長天守は本丸中央にありましたが、秀忠の元和天守は本丸北に建てられました、現在天守台が残っている位置です。

江戸城 天守台跡
江戸城 天守台跡

元和天守は慶長天守よりと同じく五層五階建てですが慶長天守よりも床面積は広く、より立派になりました。俺は無能な二代目ではないぞ。こんな立派な天守を作れるのだぞ。どうだと秀忠は言いたかったのかもしれません。壁は家康の天正天守と同じく白い漆喰塗りの真っ白な城でした。

元和天守の竣工が始まった元和9年(1623)秀忠は息子の家光に将軍職を譲ります。しかしそれ以後も、秀忠は江戸城西の丸で大御所として政治の舵を取り続けます。

利根川東遷事業

江戸城や江戸の町の造営と並行して行われたのが利根川の東遷事業です。利根川は新潟の大水上山(おおみなかみやま)を水源として関東地方を北から東へ流れる大河です。現在からは想像もつかないですが、もともと利根川は関東平野の中央を流れ、江戸湾に注いでいました。この流れを大きく東に遷し、赤堀川と接続し、銚子から太平洋に流れ込むようにしました。

利根川東遷事業
利根川東遷事業

家康・秀忠・家光・家綱四代、60年の歳月をかけた大事業でした。

なぜこんな大事業を行ったのか。理由はいくつか挙げられます。利根川の氾濫から江戸の町を守るため。利根川沿いに新田開発を進めるため。また東北から物資を運ぶには海路を使うより内陸の水路を使ったほうが波も風も安定しました。そういった水路に安定して水を引くために利根川という大河を引っ張る必要があったとも言われます。また仙台の伊達氏など、東北の有力大名に対する防ぎという意味もあったようです。

何にもして大規模な工事でした。

現在、利根川といえば銚子。利根川といえば銚子というイメージですが、銚子に至る流れが人工的に作られたものだったなんて。ちょっとビックリですね。

寛永寺

土木事業だけではありません。

宗教という面からも江戸の街づくりは進められました。

寛永2年(1625)、上野の地に天台宗の関東総本山として東叡山寛永寺が築かれます。

現・寛永寺 根本中堂
現・寛永寺 根本中堂

平安京の鬼門である比叡山に延暦寺が建てられたことにならい、江戸城の鬼門である上野に建てられたと言われます。開山には家康の側近でもあった南光坊天海が迎えられました。

「気は長く 勤めは固く 色薄く 食細うして 心広かれ」

という天海僧正の歌は有名です。天海僧正は108歳とか134歳まで長生きしたということですけども、本当でしょうか。ちょっと妖怪めいた感じも漂ってますね。

天海僧正毛髪塔(上野恩賜公園内)
天海僧正毛髪塔(上野恩賜公園内)

現在の寛永寺本堂(根本中堂)は上野公園北西にありますが、

もとは上野公園の噴水のあたりにありました。しかも当時は上野公園のほぼ全域が寛永寺の寺域でした。とても広かったのです!

寛永寺 根本中堂跡
寛永寺 根本中堂跡

しかし慶応4年(1868)彰義隊の上野戦争で寛永寺のほぼ全域が燃えてしまいました。現在の寛永寺根本中堂は明治になって河越喜多院の本持堂(ほんじどう)を移築したものです。

また寛永寺ができたと同じ頃、琵琶湖になぞらえた不忍池(しのばずのいけ)に、竹生島になぞらえた弁天島が作られました。その弁天島に建てられのが不忍弁天堂です。現在でも毎日出店が立ちならび、一年中お祭りの楽しさがあります。

不忍弁天堂
不忍弁天堂

増上寺はもとは真言宗の寺院ですが、室町時代に浄土宗に改宗しました。家康の江戸入府後は徳川家の菩提寺として大いに栄えました。歴代の徳川将軍の墓の多くは、寛永寺か増上寺にあります。

増上寺 三門
増上寺 三門

増上寺 境内
増上寺 境内

ただし初代家康は遺言により日光に葬られ、三代家光も日光に、15代慶喜は谷中霊園に葬られています。この三人だけが例外で、あとは寛永寺か増上寺です。

徳川家光の寛永天守

寛永9年(1632)正月、二代秀忠が死ぬと本格的に三代家光の時代に入っていきます。家光は家康・秀忠の行った天下普請をさらに推し進め、江戸の町を整えました。江戸城においては、本丸御殿を築き、同時に天守も再建しました。

家光が築いた天守は寛永天守と呼ばれ、家康・秀忠の天守につぐ三代目の天守となります。以前の天守よりさらに立派な、五層五階地下一階の荘厳な天守でした。家康の慶長天守、秀忠の元和天守と違い、外壁は銅板黒塗りであったことに特徴があります。

本丸御殿

寛永18年(1639)本丸御殿が完成。家光はすぐに本丸御殿に入ろうとしていた矢先、原因不明の火事で燃えてしまいます。

大急ぎで再建工事を行い、翌寛永19年(1640)工事が完了。家光は本丸御殿に入りました。

江戸城 本丸御殿跡
江戸城 本丸御殿跡

江戸城本丸御殿は大きく三つの部分に分かれました。

玄関に近いほうから、表(おもて)・中奥(ちゅうおく)・大奥(おおおく)です。

表は公式な儀式の場。中奥は将軍のプライベートな生活区域。大奥には将軍の正室や側室、母など女性が住まいました。

現在の皇居東御苑、本丸跡には何の印も残らず、芝生が広がるだけですが、この広大な場所で歴代の将軍や大奥の女たちのドラマが繰り広げられたと想像すると胸が熱くなります。

解説:左大臣光永