江戸の町づくり~神田上水の整備

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江戸は自然発生的にできた町ではなく、天正18年(1590)徳川家康が入府してから、急ピッチで都市として整えられていきました。家康が、家光が作った江戸の町の工夫は、現在の東京でもいたる所で目にすることができます。

こういう話もふまえて現在の東京を歩くと、さまざまな発見があって楽しいと思います。

飲料水の確保

天正18年(1590)江戸に入府した家康の最初の課題は、飲料水の確保でした。多くの家臣、その家族、侍たちが生きていくには水が必要でした。しかし当時の江戸は海が日比谷のあたりまで入り込んでいる海辺の町でした。

井戸を掘っても出てくるのは塩水ばかり。真水を汲み出すには深く掘る必要があったが、当時はそんな土木技術は無い。そこで家康は、川をせき止めて飲料水のためのダムを築きました。これが牛ヶ淵と千鳥ヶ淵で、現在も皇居の濠の名前として生きています。

神田上水

家康の江戸入府早々、大久保藤五郎忠行が井の頭池から水を引いて上水道を開きました。これを小石川上水といいます。大久保忠行はその功績により、「主水」の呼び名を家康より賜りました。「モンド」でなく「モント」とよぶのは、「水が濁ってはならないから」でした。

家康は小石川上水をもとに発展・整備させて、江戸の町々に水を届ける大規模な仕組みを作ります。神田上水です。

※ただし小石川上水の詳細は不明。小石川上水と神田上水の関係も、諸説あり。

神田上水の水源は、井の頭池です。井の頭池から流れ出した神田川に、やがて善福寺池からの流れが合流し、関口村(文京区関口)の関口大洗堰でいったんせきあげられます。

神田上水
神田上水

関口(現江戸川橋公園)
関口(現江戸川橋公園)

関口(現江戸川橋公園)
関口(現江戸川橋公園)

せき上げられた水は上水路を通って、いったん水戸徳川家の上屋敷(現後楽園一帯)へ入り、

神田上水
神田上水

水戸徳川家 上屋敷跡(小石川後楽園)
水戸徳川家 上屋敷跡(小石川後楽園)

現在の水道橋あたりで神田川の上にかかる掛樋(かけひ)を通って神田川を渡ります。神田川の上に細い水路を渡して、水を通したんですね。JRの駅名にもなっている「水道橋」はこの掛樋から来ています。

神田上水掛樋跡
神田上水掛樋跡

現・神田川
現・神田川

神田上水掛樋の模型(東京都水道歴史館)
神田上水掛樋の模型(東京都水道歴史館)

関口から神田川にかかる掛樋までの上水区間、約3キロ。

そして神田川を渡った後は地下水路を経て神田、日本橋方面の井戸に届くという仕組みでした。

どうしてこんな面倒なことをしたんでしょうか?

神田川の分流を直接、江戸の町中に引き込っぱってきたほうがカンタンじゃないですか?

あえて、いったんせき上げから流す。こんなメンドウなことをしたのは、なぜでしょう?

考えてみましょう。

神田川の分流をそのまま江戸の町に引き込んだらどうなるか?

増水した時には江戸の町が水びたしになるし、水が少ない時はカラカラになります。

その点、関口でいったんせき上げて、水の量を調整してから流すという形なら、常に一定の水の供給が保たれるというわけです。うまくできてますね。

神田上水
神田上水

神田上水の工事は家康の入府以来実に40年の歳月をかけて、三代家光の時代に完成しました。

ちなみに松尾芭蕉も神田上水の工事に従事したことがあったとかで、東京江戸川橋の関口芭蕉庵がその頃の芭蕉のすまい跡とされています。

関口芭蕉庵
関口芭蕉庵

水路の開削

人が生活するために水の次に欠かせないのは、何でしょうか?

塩です。

江戸の近くで最大の塩の産地は下総国行徳(ぎょうとく)でした。そこで家康は行徳の塩田を大いに支援します。しかし、行徳の塩をどうやって江戸まで運ぶかが問題でした。

地図を御覧ください。

新川・小名木川・道三堀
新川・小名木川・道三堀

行徳は海に近く、船で海岸線沿い江戸まで運べばよさそうに思えます。しかし河口近い海は潮流の変化が激しく風も安定しません。そこで家康は利根川から中川までを貫く新川、中川から隅田川までを貫く小名木川を築かせました。

隅田川以西は、江戸前島(えどまえとう)という半島状の地形がありましたが、この付け根あたりを開削して、道三堀(どうさんぼり)という運河を開きました。

これら新川~小名木川~道三堀というルートをたどって行徳の塩が江戸市内に安定して供給されるようになりました。また物資だけでなく成田山新勝寺や鹿島神宮にお参りする人でも賑わいました。

現在、小名木川沿には「塩の道」として遊歩道が調えられています。

小名木川 塩の道
小名木川 塩の道

小名木川
小名木川

江戸城の整備

これら水路や運河、上水道の建設と並行して、江戸城の整備が進められました。江戸城は太田道灌の築いた三つの曲輪を、空堀をつなげて一つとし、これを本丸としました。本丸の西には局沢十六寺(つぼねさわじゅうろくじ)という寺々がありましたがこれを移築して西の丸を置きました。

城下町の整備

また城下町も整えられていきました。道三堀を開削した土砂で海抜の低い土地を埋め立てて、商人や職人の町としました。一方、埋め立ての必要の無い西側の武蔵野台地は武士の住まいとなりました。現在の下町・山の手の区別です。

このように江戸城・城下町の整備が続いていましたが、秀吉が家康に伏見城の普請を命じると、そっちに労力を割くことになります。江戸城・城下町の建設は中断されますが、

慶長3年(1598)秀吉が死にます。慶長5年(1600)家康が関ヶ原の合戦に勝利し慶長8年(1603)征夷大将軍に就任すると、もう家康は秀吉の一家臣ではない。天下人として好き放題やれるので、全力を挙げて江戸城と江戸の街づくりに突き進みます。

全国の大名に命じ、「天下普請」…全国規模の大規模な土木工事として、江戸城の普請を行いました。手始めに家康は石垣の調達と運搬を西国の31か国に命じ、必要な人員も差し出させました。

日本橋の架橋

慶長8年(1603年)徳川家康は江戸開府の際、江戸城の東を流れていた平川を延長し、東海道をはじめとする五街道の起点として木橋を掛けました。これが初代の日本橋です。橋の下を流れる川は日本橋川と名付けられました。

現在の日本橋
現在の日本橋

五街道の整備

交通網も整えられます。東海道では江戸から京都まで53の宿場があり、これを東海道五十三次といいますが、各宿場ごとに馬を置いて、乗り継いでいく仕組みを整えました。伝馬制です。これにより人や物資の運搬がスムーズに行くようになりました。

はじめは東海道・日光街道が整えられ、最後の甲州街道が整えられたのは江戸時代も中期。十代家治(いえはる)の時代でした。

五街道は日本橋を起点として、その最初の宿は、東海道が品川宿。日光・奥州街道が千住宿。中山道が板橋宿。甲州街道が高井戸宿でした。そのうち高井戸だけは日本橋から16キロもあり遠いので、後により近い位置に新しい宿が作られました。内藤新宿…現在の新宿です。

これら品川・千住・板橋・新宿を四宿(ししゅく)といい、宿場町が整えられ賑わいました。現在も千住や板橋の商店街を歩くと、宿場町時代の面影が漂い、にぎやかです。

板橋宿跡(現仲宿商店街)
板橋宿跡(現仲宿商店街)

水上輸送

水上輸送も充実させていきました。大坂と江戸を結ぶ菱垣廻船、樽廻船がまず整えられ、ついで材木商河村瑞賢に命じて、江戸と東北を結ぶ東廻り航路、西廻り航路が開かれました。

東廻り航路、西廻り航路
東廻り航路、西廻り航路

五街道に加え、これらの航路を利用することで物資の輸送がスムーズにいくようになり。江戸の町は大いに発展していきます。

貨幣

貨幣も鋳造します。日本では古代から幾度となく貨幣は作られました。しかし多くは品質が悪く、まともに流通しませんでした。そのため主に貨幣として使われるのは中国から輸入した渡来銭でした。また江戸時代に入っても物々交換が幅をきかせていました。これではいかんと、家康は統一貨幣の鋳造に乗り出します。日本橋本石町に金座を、現在の中央区銀座に銀座をもうけて統一基準による貨幣を鋳造させました。またそれまで大型だった貨幣を小さくして持ち運びに便利にします。これを小判といいます。

第一次天下普請

慶長10年(1605)家康は秀忠に将軍職を譲り、駿府に隠居します。隠居といっても家康は大御所として駿府で生涯権力をふるい続けましたが、ともかく秀忠の時代に入ったわけです。翌慶長11年(1606)、いよいよ江戸城の第一次天下普請が開始されます。

慶長天守

太田道灌以来の江戸城を、藤堂高虎の縄張り(設計)により大規模に作り変えます。藤堂高虎縄張りによる家康・秀忠時代の江戸城は、きわめて実戦的なものでした。

大規模な堀と石垣。本丸に至るまでの複雑な経路。敵に知られず出撃の準備をするための的場曲輪。そして天守は本丸中央北寄りに建ち、大天守と二棟の小天守を曲輪で連結したものでした。壁は白い漆喰塗りの真っ白な城でした。この家康時代の天守を慶長天守といいます。

これら藤堂高虎による城の縄張を見ると、単に城主の権威を示すとか、デモンストレーション的な役割だけではないことがわかります。家康・秀忠時代の江戸城は実際に敵が攻めてきて、防ぎ戦うことを想定していました。

では敵とは誰か?

家康が江戸城を築いた頃は豊臣秀頼とその母淀殿が大坂城に健在でした。大坂の秀頼方が、いつ江戸に攻め上ってくるかもしれない。まだ戦国時代は終わっていなかったのです。そのため、家康時代の江戸城はきわめて実戦的に、戦うことを想定して造られていました。

日比谷入江の埋め立て

江戸城の改築に並行して、日比谷入江の埋め立てが進められました。江戸城近くまで大きく入り込んでいる日比谷入江は何かと問題でした。たとえば外国船が攻めてきた場合、こんなに海が近くては物騒です。それに入江を埋め立てれば新たな居住地が確保できます。また、運河の開削作業で生じた土砂を処理する意味もありました。

しかし、日比谷入江を完全に埋めてしまうのも問題でした。小名木川~道三堀とつながっていた水路が江戸城のだいぶ手前で途切れてしまいます。そこで、外堀と呼ばれる水路を確保しながら、埋め立てを進めました。

日比谷入江の埋め立て
日比谷入江の埋め立て

しかし埋め立てのための土砂が不足していました。そこで江戸城北東の神田山の南部を切り崩して、その土砂を日比谷入江の埋め立てに用いました。平地になった神田山南部には家康の死後、駿府の家康の家臣たちが移住しました。駿河台、という地名が、当時の歴史を今を伝えています(JR御茶ノ水駅のあたり)。

解説:左大臣光永

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