徳川吉宗(四)享保の改革(一)

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小石川養生所の井戸跡
小石川養生所の井戸跡

大奥のリストラ

享保元年(1716)徳川吉宗は江戸城本丸にて征夷大将軍の宣下を受け、正式に八代将軍に就任しました。

将軍就任に際し、吉宗は幕臣たちに言いました。

「今度私が将軍となったのは、天下の政治を立て直すためだから、これまでの将軍と違った政策を取る場合がある。権現さま(家康)以来の格式は尊重する。しかしそれ以外の無駄なしきたりは廃止する」

すなわち家康公以来の格式は守るが、それ以外の無駄なことはどんどん取りやめにする。コストカットしまくるぞ、リストラしまくるぞという宣言です。

実際、吉宗は将軍就任早々、リストラを行いました。

こんなエピソードがあります。

大奥の女中の中で、特に美しい女の名を書き出させました。美女たちの親は、もしかして側室に選ばれるかもと期待しました。

50人の名が書き出されました。すると吉宗は、この五十人に暇を出せと。は?上様、それはいったい。

そんなに美人ならどこへ行っても嫁の貰い手があるだろう。

しかしそう美人でも無いものは貰い手が無いから大奥で養ってやるのじゃ。

万事、吉宗はこんな調子でした。

紀州藩士の頃、鷹狩の途中に農家に立ち寄りました。その家の女性が米俵を軽々と担ぎ上げて運んでいました。

気に入った!

吉宗はその女性を側室にしました。「丈夫な女であるから、さぞかし丈夫な子ができるだろう」と。

享保の改革

吉宗が将軍となった享保元年(1716)から延享2年(1745)までの30年の間に行われたさまざまな政策を、「享保の改革」と言っています。

人事の刷新

将軍就任早々、吉宗は人事を刷新します。新井白石・間部詮房といった「正徳の治」を支えてきた幕臣を解任しました。

もっとも吉宗は新井白石の政治手腕を高く買っており、幕政に参加してほしいと招いたようです。ところが白石は誤解から吉宗のことを嫌っており、ついに応じることはありませんでした。

また吉宗は元紀州藩士を将軍側近として取り立て、権力地盤を固めます。彼らは吉宗にとっての古くからの譜代の家臣であり、「紀州派」として幕府の中で重く用いられるようになります。

吉宗がいかに紀州派を信用し、他を信用しなかったかは享保11年(1726)に設置された御庭番にそれがあらわれています。

御庭番。その役目は表向きは江戸城奥庭の警備でしたが、諸国の大名を監視し、世間の風聞などの情報収集にあたりました。いわば密偵です。定員は17名で、幕末まで続きました。この御庭番も、すべて紀州派から世襲で任命されました。

防火対策

享保2年(1717)吉宗は大岡忠相を町奉行に任命します。江戸の町を首都にふさわしい大都市として整えるためでした。

江戸の町では火事がしょっちゅう起こっていました。明暦の大火(明暦3年(1657))のような大火事がまたいつ起こるとも知れませんでした。

そこで大岡忠相は「いろは四十八組(しじゅうはちくみ)」という町火消組合を作り、火事の時、防火に当たらせました。また瓦葺き屋根や土蔵造りなど、火事に強い家の作りを奨励し、いざ火事になった時火を沈めたり民衆の逃げ場となる場所「火除地(ひよけち)」、また「火の見櫓」をもうけました。

芝 増上寺 め組供養碑
芝 増上寺 め組供養碑

火事といえばこの頃エピソードがあります。

享保2年(1717)正月、江戸で火事があり、江戸城本丸にも迫りました。その時吉宗は、羽織を着て頭巾を腰にはさみ、御殿の戸をはずしその戸をはしごとして屋根に上り、火事の様子を見ました。

天英院(前々将軍家宣の正室)があわてて大奥から逃げていくところを、屋根の上から「心配ありません」と声をかけたといいます。

江戸周辺の改造

吉宗は江戸の周辺部も首都圏として整えていきます。江戸の東西南北に公園を造りました。

東に隅田川堤、西に多摩郡中野村、南に品川御殿山(ごてんやま)、北に王子飛鳥山。それぞれの公園に四季折々の草花を植えて行楽地として開放しました。

飛鳥山公園(東京都北区)
飛鳥山公園(東京都北区)徳川吉宗が築いた行楽地

ことに王子飛鳥山の桜は名所となり、上野の山の花見客が減ったほどです。

五代将軍綱吉の時、犬屋敷が置かれていた中野には桃を植えて、市民の憩いの場としました。JR中野駅南口一帯に「桃園」の地名が残ります。

中野 犬屋敷跡
中野 犬屋敷跡

現中野区役所 中野犬屋敷のあったあたり
現中野区役所 中野犬屋敷のあったあたり

玉川上水沿いの小金井桜も吉宗が植えさせたものです。

また隅田川両国橋の川開きの花火をはじめたのも吉宗と言われています。

目安箱の設置

享保6年(1721)江戸の評定所前に目安箱を設置します。民の意見を直接聞いて、政治に活かすためです。目安箱は将軍側近が鍵のかかったまま吉宗の前に持っていき、小姓が鍵を開けて吉宗が直接読み、担当の部署に対応させるました。

目安箱の意見が通った例として有名なのが、小石川養生所です。

小石川養生所の井戸跡
小石川養生所の井戸跡

享保7年(1722)小石川伝通院そばの町医者小川笙船(おがわ しょうせん)…通称「赤ひげ先生」の意見により、小石川薬園に養生所を開きました。

小石川養生所は貧しい人々が無料で診察・治療を受けられるものでした。明治維新で廃止されるまで約140年間続きました。現在、東京都文京区小石川植物園内に小石川養生所の井戸が残っています。

解説:左大臣光永

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