五代綱吉(五)綱吉から家宣へ

相次ぐ災害

綱吉の治世の後半は天変地異が相次ぎました。地震。大風。大火。あまりに悪いことが続くので、元禄17年(1704)改元して宝永元年としました。

しかし天変地異はやまない。宝永4年(1707)11月には、富士山の八合目あたりから噴火し、未曾有の大災害となりました。富士山の肩に乗っかったように見える宝永山は、この時に出来たものです。

綱吉に対する不満の声は天下に満ちました。儒教の考えとして、世の中に天変地異が起こるのは君子が至らないせいとされていたのです。

天よりはすなほになれとふらせども
人はよごれて泥坊になる

そんな落首もありました。お上は民衆にすなおになれと言うが、人はよごれて泥坊になるという話と、天から砂が降ってきたので人は汚れて泥まみれだという二重の話が掛けられています。

綱吉から家宣へ

宝永元年(1704)12月5日、甲府綱豊は正式な将軍跡取りとして桜田邸から江戸城西の丸に移ります。時に綱豊43歳。綱豊は西の丸入りと同時に名を家宣とあらためます。すぐに新井白石以下7人の儒者が、家宣の教育のため、江戸城西の丸に迎えられます。

綱吉から家宣へ
綱吉から家宣へ

綱吉には子がいなかったので、綱吉本人は不本意でしたが甲府綱豊=徳川家宣を迎えるしか、ありませんでした。

桂昌院薨去

宝永2年(1705)3月23日、綱吉の母桂昌院が亡くなります。卑賎の身分から身を起こし春日局の目に留まり大奥に入り、三代将軍家光の寵愛を受け、綱吉を生みました。

生涯にわたり息子綱吉を支え、その影響力は計り知れないものがありました。綱吉は心から母桂昌院を尊敬し慕っていました。綱吉は毎日、母のいる三の丸に家来を派遣し、母のご機嫌うかがいをしました。

東京都文京区大塚の護国寺は、母桂昌院の願いを入れて徳川綱吉が創建した寺です。

護国寺
護国寺

護国寺
護国寺

綱吉の最期

宝永5年(1708)の暮れから綱吉は風邪を患います。翌宝永6年(1709)正月、発疹が出て、麻疹と診断されます。当時、麻疹は命に係わる病気でした。さまざまに看病しましたが、正月10日、綱吉は帰らぬ人となります。上野寛永寺に埋葬され、正月23日、正一位の位が送られました。

5月1日、家宣が征夷大将軍の宣下を受け、江戸城本丸に入り、六代将軍に就任しました。

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解説:左大臣光永