五代綱吉(ニ)天和の治と側用人柳沢吉保

堀田正俊と天和の治

徳川綱吉の治世は延宝・天和・貞享・元禄・宝永。1680年から1709年までの29年間にわたります。

そのうち前半の天和・貞享期は老中堀田正俊が、後半の元禄・宝永期は側用人の柳沢吉保が政治力をふるいました。

堀田正俊は綱吉の将軍就任当初から信任を受け、堀田正俊は「民は国の本なり」をモットーに、貧民救済を行う一方、年貢の取りこぼしを許さず、不正代官を取り締まりました。

大名でも不正があると容赦なく取り潰しました。その苛烈さは諸国の大名に恐れられました。

堀田正俊の政治は後世「天和の治」と呼ばれています。

堀田正俊の暗殺事件

ところが、当の堀田正俊は貞享元年(1684)8月26日の朝、江戸城本丸にて若年寄稲葉正保(いなば まさやす)により暗殺されてしまいます。

この日は徳川一門や大名が将軍に拝謁する月並の儀式が行われる日でした。

堀田正俊は将軍の御出座を前に、部屋に待機していましたが、そこへ稲葉正保が近付き、

「相談したき儀がござる」

そう言って堀田正俊を控室に呼び出し、堀田がまだ席につかないうちに、

すぷっ

稲葉が堀田の右脇腹を脇差で刺します。

「ぐぬぬっ…」

堀田のうめき声をきいて、老中たちがあわてて駆けつけますが、稲葉はさらに突き刺した脇差をぐりっ、ぐりっと動かして堀田の腸をえぐる。

「やめぬか!何をやっておる!」

老中たちは稲葉を止めようとメッタ打ちにして殺します。ぐ、ぐぬう…堀田もすでに虫の息でほどなく絶命します。

大切な儀式の場が血で汚されてしまい、この日の儀式は中止となりました。

稲葉はなぜ堀田に斬りかかったのか?どんな遺恨があったのか?

事件の当事者が二人とも死んでしまったため、真相は闇の中です。しかし、治水工事について稲葉は不正を行っており、それがバレそうになったので犯行に及んだという見方が有力です。

喧嘩両成敗の原則により、事は不問とされました。

御側御用人の台頭

堀田正俊の暗殺事件の後、将軍と老中・若年寄の間に距離が置かれました。それまでは将軍の居室のすぐ近くの御用部屋に老中・若年寄が詰めていました。

しかし、今回の堀田正俊暗殺事件のようなことが今後も起こらないとも限らない。万一将軍さまが害されるようなことがあっては事だ。

そこで老中・若年寄は将軍の部屋から遠く離れた部屋で待機させられることになりました。

となると、それまで老中・若年寄から直接将軍にうかがいを立てていたのが、そうもいかなくなります。老中・若年寄と将軍との間に伝達役…メッセンジャー役を置く必要が出てきます。そのメッセンジャーが「御側御用人(おそばごようにん)」とか「側用人」と呼ばれるものです。

堀田正俊の暗殺事件の後はこの側御用人の立場が急激に強くなっていきます。

柳沢保吉

中にも柳沢保吉(やなぎさわ よしやす)は、綱吉の綱吉の信任を受けて勢いをのばし、ついに大老格にまで出世しました。

駒込の六義園を作った人物としておなじみですね。

宝永元年(1704)甲府城主であった家宣が将軍後継者と決まると、かわって柳沢保吉が甲府城15万石を与えられました。甲府城は代々徳川の身内が所有してきた城であり、家臣に与えられるのは異例のことでした。

そのため、柳沢吉保の息子・吉里は徳川綱吉のご落胤ではないか?などという噂もささやかれました。

解説:左大臣光永