五代綱吉(一)綱吉時代の始まり

綱吉の出生

正保3年(1646)1月8日、江戸城本丸大奥に、一人の男児が産声を上げます。父は三代将軍徳川家光。母は京都堀川通西藪町の八百屋の娘・お玉。幼名徳松。後の五代将軍徳川綱吉です。

徳川家光は正妻との間に子は生まれませんでしたが、側室との間に男子5人女子1人を得ました。そのうち長男の竹千代が四代将軍家綱となり、次男が長松=綱重。四男が徳松=綱吉です。三男の亀松と五男の鶴松は早世したので、長松=綱重と徳松=綱吉が同格扱いとなります。

徳川綱吉 系図
徳川綱吉 系図

母 お玉=桂昌院

綱吉の生母は側室のお玉。西陣織の家の娘とも、京都堀川の八百屋の娘ともいわれます。

幕府の公式記録『徳川実紀』には公家の二条家に仕える侍・北小路宗正(きたのこうじ むねまさ)の娘とありますが…これは将軍の母が八百屋や西陣織の家ではカッコウがつなかないので、そういう話にしたのでしょう。

お玉は家光の側室お万の手引きで京都から江戸に下り、大奥入り。春日局の指示で家光の側女中となり、寵愛を受けるようになりました。19歳で三男の亀松を、翌年4男の徳松…後の徳川綱吉を生みました。

お玉は生涯にわたって息子綱吉を愛し綱吉も母を愛し、綱吉の治世にお玉は強い影響力を持ちました。

慶安4年(1651)家光の没した後は桂昌院と号されます。

綱吉と綱重

承応元年(1652)、将軍家綱の偏諱を与えられ「綱吉」と名乗ります。明暦3年(1657)、明暦の大火で江戸城も江戸の町もほとんどが焼失すると、綱吉もそれまでの竹橋の屋敷から神田の屋敷に移ります。

寛文元年(1661)、上野国館林を与えられ25万石の領主となります。異母兄の綱重も甲府25万石で同じ扱いでした。

しかし将来の将軍候補は弟の綱吉のほうでした。綱重ははじめから将軍候補からはずされていました。年上であるにも関わらずです。なぜか?

この頃迷信があり、42歳の時に2歳になる子は、その家に災いをもたらすとされていました。そのため、長松(=綱重)ははじめから将軍候補として外されていました。弟の徳松(=綱吉)こそが次期将軍候補でした。

とはいえ綱吉と綱重は幕府から対等に扱われました。ともに25万石を拝領し、綱吉は館林に、綱重は甲府に。領地を得ます。

綱吉、儒学を学ぶ

館林時代の綱吉は儒学を人見元徳(ひとみ げんとく)より習い、熱心に学びました。

ことに孔子と弟子の問答を書いた『孝経』『大学』を熱心に読み込み、ことに『孝経』は注もあわせて完全に暗唱できるまでになりました。綱吉の学問好きは母桂昌院の指導によるものだったようです。また馬術や謡の稽古にも励みました。

徳川家綱の最期

延宝8年(1680)5月6日、家綱は病にかかります。もともと病気がちの家綱でしたが、いよいよ命が危ぶまれました。

「余は40歳までは生きられないだろう」

家綱は常々、家臣たちにそう語っていました。その40は何とか迎えましたが、長く持ちそうにありませんでした。しかし子の無いままに死んでは徳川の血が絶えることになる。そこで

異母弟の綱吉を養子にした上で、次期将軍候補としました。家綱には男子がなかったので、跡取りは弟たちから選ぶほかありませんでした。

そのうち綱重は出生年についての迷信から後継者候補をはずされた上、延宝6年(1678)すでに亡くなっていました(自殺説も)。よって次期将軍候補は綱吉一人でした。

綱吉は館林城主を辞して、いったん江戸城西の丸に入ります。館林城主は、息子の徳松が引き継ぐこととなりました。

延宝8年(1680)5月8日、家綱は亡くなります。享年40。墓は上野寛永寺にあります。

徳川家綱は誠実で自制心がありました。しかし病弱で、精力的に事に当たるタイプではありませんでした。

多くは重臣たちに丸投げで、何を尋ねても「さようにいたせ」と言ったため、世間から「さようせい様」とあだ名されました。

綱吉 五代将軍となる

(異母)兄であり養父である家綱の没後、綱吉は50日間にわたって喪に服しました。その喪に服する様子はしかし…やや常軌を逸していました。

綱吉は喪に服す間、食事を減らし、襟を正し、禊をして身を清め、ほとんど口を閉じて会話もしませんでした。

綱吉は、家綱が使った厠を使うことをはばかったため、新しく厠を作らねばなりませんでした。

これは肉親を失った悲しみというよりも、綱吉の、汚れや不浄といったことに敏感すぎる性質を示していました。後々の生類憐みの令にも通じる、精神のゆがみというか、極端さがここに読み取れます。

7月10日。綱吉江戸城本丸入り。

8月23日、江戸城本丸にて将軍宣下。五代将軍綱吉の誕生です。時に綱吉35歳。

中継ぎの将軍

当初、綱吉は中継ぎ的な将軍と見られていました。というのは、家綱が綱吉を養子にした時点で、家綱の側室の二人が懐妊しており、他にも大奥の女中が懐妊している可能性があったからです。

徳川綱吉は中継ぎの将軍
徳川綱吉は中継ぎの将軍

本来ならば父から子への直系相続がもっとも好ましいのです。徳川幕府は初代家康から四代家綱まで直系相続で来ました。

相続が兄→弟へと流れる時は騒動が起こることは、古代の壬申の乱や、平安末の保元の乱を見るまでもなく、近世の大名家のお家騒動でもたびたび見られることでした。

そこで、まずは腹違いの弟の綱吉を養子として、中継ぎの将軍とする。しかる後に家綱に嫡子が生まれ、成人するのを待って正式にその嫡子を六代将軍とするという考えだったようです。

つまり綱吉はあくまでも中継ぎ的な将軍と見られていました。

しかし、家綱の子は死産となり、話は変わってきます。

大老 酒井忠勝の罷免

綱吉が将軍になってはじめに行ったのは大老酒井忠勝を罷免することでした。

酒井忠勝は綱吉の将軍就任に反対であり、綱吉の将軍就任をはばむために様々に工作をした。そのため綱吉の将軍就任後は嫌われ、幕政から外されたのだ…

というイメージがありますが、これは事実に反します。単に酒井忠勝が病気がちだったので暇を出したにすぎません。遺恨があったわけではありません。

かわって綱吉は堀田正俊(ほった まさとし)をあらたな大老に就任させます。

越後松平家の改易

また綱吉の将軍就任当初の重要課題が、越後騒動の再審査でした。

越後高田の当主を松平光長といい、養子の綱国に家督を継がせようとしました。そこへ家老の小栗美作がしゃしゃり出て、自分の息子掃部のほうを跡取りにしようと画策しました。

越後松平家ではそんなことは認められないと、幕府に裁断を仰ぎましたが、延宝7年(1679)幕府の判決では、小栗美作が勝訴となりました。

やっぱり俺が正しいじゃないかと調子に乗った小栗美作は専制をふるうようになりました。それで、越後を離れていくものが百人も出ていました。

天和元年(1681)6月21日、徳川綱吉は江戸城大広間にて、御三家以下諸大名が居並ぶ中で、双方の言い分を聞き、判決は明日言い渡す。これにて罷り立て。ははっ。

翌日。

「小栗美作・掃部父子は切腹とする」

堂々たる判決を言い渡します。そのほか、御家騒動にかかわった多くの者が流罪となります。御三家以下諸大名、綱吉の堂々たる裁きにおそれいります。

もちろん、綱吉は単なる勢いで裁きを行ったのではなく、前々から越後に目付を派遣して、御家騒動のありさまを報告させていました。しっかり地固めを行い証拠を集めてのことでした。

その後、松平光長は改易となり、伊予松山の松平定直に越後高田は預けられました。

解説:左大臣光永