由比正雪の乱(慶安事件)

こんにちは。左大臣光永です。

年末の買い出しに、近くのスーパーに行ってきました。いつもながらレジのおばちゃんの、見事な手際に圧倒されます。パッパパッパと、会計済みのカゴに移していく。しかも見事に整理され、並べられた状態でです。

ところが今度は会計済みのカゴから持ち帰り用の買い物籠に自分で移す時、せっかく整理されていた品物が、ぐちゃぐちゃのデタラメな状態になってしまう…

それが、レジのおばちゃんが作り上げた芸術作品を壊しているようで、私はいつも申し訳ない気持ちになります。

さて。左大臣の古典・歴史の名場面 第1037回。

「由比正雪の乱」についてお話していきます。

↓↓↓音声が再生されます↓↓

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正雪紺屋
正雪紺屋

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家光から家綱へ

慶安4年(1651)4月20日、三代将軍・徳川家光が息を引き取ります。幕府草創期にあってさまさまな幕府の仕組みを整え、江戸の町を整備し、また祖父家康を深く信仰し、日光東照宮の大改築を行った徳川家光。

歴代の徳川将軍の中でもまず名君と言って名の挙がるのが家光です。その家光が亡くなった。嘆き悲しみの声は天下に満ちました。

跡を継いで四代将軍となったのは家光の子・家綱。この時11歳でした。

11歳で政治はできないので、家光の弟の保科正之が家綱の補佐役となります。また大老の井伊直孝・酒井忠勝(さかい ただかつ)、老中の松平信綱・松平乗寿(まつだいら のりなが)・阿部忠秋(あべ ただあき)など、優秀な官僚が家綱体制を固めました。

家光の没した直後、老中井伊直孝・酒井忠勝らが大名たちを集めて言いました。

「お世継ぎの家綱さまは11歳であらせられる。いにしえより言うではないか。幼君の時は国を傾けようとする輩があらわれると。各々方にも、もし天下を狙う野心があれば、今が絶好の機会であろうぞ」

これに対して保科正之と松平光通(みつみち)が進み出て、

「万一、幼君だからといって天下を覆そうとする輩がいれば、我々が叩き潰して、御代はじめのご祝儀としましょう」

そう言ったところ、大名たちも頭を下げて、

「我々も同じ所存です」

そう答えたと伝えられます(『武野燭談』)。

さて徳川家綱の時代、日本史に記憶される大きな事件が二つ起こっています。

一つが慶安事件。もう一つは明暦の大火です。

そのうち今回は、慶安事件…由比正雪の乱についてお話していきます。

由比正雪 その人物

後世「慶安事件」あるいは「由比正雪の乱」と言わる徳川幕府転覆未遂事件。その張本人たる由比正雪とは、どんな人物だったのか?

俗に駿河由比の紺屋の息子といわれます。静岡県由比には由比正雪の実家という「正雪紺屋」が現在も営業を続けています。しかしあくまでも言い伝えであり、実際どうだったかは、わかりません。

正雪紺屋
正雪紺屋

正雪紺屋
正雪紺屋

由比正雪は江戸に出て、楠木正成の子孫を称する楠木不伝から軍学を学んだとされますが、これも伝承の域を出ません。

由比正雪は神田の連雀町の裏手に下宿して、子供たちに勉強を教えていました。生活は貧しいものでした。時々「高砂や」などの謡を歌う一方、軍学の講義をしました。

「春秋・戦国時代の孫子・呉子とはあのような人物であろう」

門弟たちは由比正雪のことをそう言って尊敬していました。不思議と正雪には人を惹きつける魅力がありました。

弟子の中には島原の乱で戦死した板倉重昌の子・重矩(しげのり)もありました。しかし大名の弟子は重矩だけでした。任官するよう招かれることもありましたが、辞退していました。

後に、新井白石は由比正雪のことを評して、「秦王朝に背いた陳勝・呉広とは、あるいはああいう人物であったか」そんなことを言っています。

陳勝といえば秦の二代皇帝に背いてみずから「楚王」を称するも、六か月で部下に殺された人物です。

若いころ、将来立身出世するぞ…的なことを言って、人からバカにされます。その時言った言葉が、あまりに有名です。

「燕雀(えんじゃく)安(いず)くんぞ鴻鵠(こうこく)の志を知らんや」

小人物には大人物の志はわからないということです。あるいは由比正雪もそんな気持を抱いていたかもしれません。

由比正雪の計画

四代家綱の御世となって間もない慶安4年(1651)7月。

由比正雪は、つくづく憤っていました。

「ひどい世の中だ。今こそ政道を正すべきである」

この頃、天下に浪人があふれていました。

関ヶ原の合戦以降、江戸幕府は大名を容赦なく取り潰しました。徳川に敵対した者のみならず、疑いを持たれた大名は改易(土地没収)となりました。

そのたびに家臣は浪人となりました。その数は、関ヶ原合戦(1600)から慶安三年(1650)までで40万人とも23万5000人ともいわれています。

これは武士の数のみなので、家族や奉公人も含めると膨大な数の人々が安定した生活を失ったことになります。

「今の世は、一度叩き潰さなければ、どうにもならぬ」

そこで由比正雪の立てた計画は、

夜陰に乗じて小石川の煙硝蔵の番人・河原十郎兵衛(かわらじゅうろうべえ)に火薬庫に火をつけさせる。

その爆発を合図に、宝蔵院流流槍術の達人・丸橋忠弥(まるばし ちゅうや)の指揮の下、江戸の各地に放火し、老中らが驚いて江戸城に登城したところを一一に射殺し、紀州様ご登城と称して江戸城を乗っとる。

同時に駿府では、由比正雪直々の指揮により駿府城を占領。久能山を奪取し、久能山に埋蔵してある金銀を軍資金とする。

同時に大阪でも、金井半兵衛(かない はんべえ)に騒ぎを起こさせ、全国の職にあぶれた浪人たちの一斉蜂起を呼びかけるという大胆不敵な計画でした。

芝居における丸橋忠也

河竹黙阿弥作の歌舞伎「慶安太平記」に、有名な場面があります。

小雨降りしきる江戸城二重橋(にじゅうばし)前で、丸橋「ああいい心持ちだぁ」と酔ったフリをしてお濠に石を投げてお濠の深さをはかっていると、それを見とがめた松平伊豆守がさっと傘を差しだす。忠也ハッと驚く、いやこれは、へへへ、犬を追っ払ったのでございます。おおっと…酔っぱらっていけねえ。ああ今夜は飲みすぎた。

そそくさと立ち去る丸橋忠弥。あやつ怪しいと睨んだ松平伊豆守。ここから、計画が発覚したのであった…

ということが歌舞伎では語られますが、事実はまったく違います。

密告

7月23日夜。老中松平伊豆守信綱のもとに密告がありました。

「本郷の浪人・丸橋忠弥が謀反を企てています」

「なに!?」

しかも訴えは一つだけではなく、複数の筋からありました。信憑性の高い情報と思われました。松平伊豆守は、北町奉行所・南町奉行所に、丸橋忠弥の捕縛を命じます。

丸橋忠弥の逮捕

与力二騎に率いられた二十四人の同心が、高張提灯をもって本郷お茶水上の丸橋忠弥の下宿へ向かいます。

丸橋忠弥は中間頭・大岡源右衛門の屋敷内に間借りして槍術の道場を開いていました。

「敵は槍の達人だぞ。油断をするな。二手に分かれて進め」

同心たちは二手に分かれて「火事だ!火事だ!」と叫びながら、塀を乗り越え、屋根にのぼり大騒ぎしました。

しばらくすると部屋の中から騒ぎが起こり、どたばた、どたばた…

「火事はどこだ!」

大慌てで飛び出してきた丸橋忠弥。そこへ同心たちがわっと飛び掛かり、丸橋忠弥をあっけなく捕らえました。

丸橋忠弥は宝蔵院流槍術の達人。

とくれば幕府の捕縛人相手に大立ち回りでもやってくれていれば私としても語りがいがあるんですが…残念ながらそういう場面はありませんでした。

丸橋忠弥は事件の後、8月10日に品川鈴ヶ森刑場で処刑されます。墓は東京目白の金乗院(こんじょういん)にあります。

幕府の動き

丸橋忠弥のほかにも小石川で火薬庫幕府を命じられていた河原十郎兵衛(かわらじゅうろうべえ)などが捕縛されます。

計画の張本人・由比正雪はすでに江戸を後に駿府をさして東海道を西へ上っているところでした。すぐに老中松平信綱は駒井右京に由比正雪追捕を命じます。また、駿府城代大久保忠成以下に能山の警備を命じました。

翌24日、老中松平信綱と大老井伊直孝が相談し、小田原城主・稲葉正則(いなば まさのり)に銘じて箱根の関をかためて旅行者を取り調べるよう命じます。

諸大名にも書状を送ります。これこれこういうわけで、由比正雪なる者が駿府で謀反を企てている。怪しい者があればひっ捕らえよと。

しかし由比正雪の行方は知れず、なかなか捕まりませんでした。

由比正雪の駿府入り

逮捕された由比正雪の妻の供述により、正雪の風貌は幕府側に知られました。

「背ちいさく、色白、髪黒く、眼はくりくりして、額短く、唇厚く、がっそう」がっそうとは総髪のことで、髪の毛全体をのばし、後頭部でたばねて後ろに垂らした髪型のことです。

しかし、由比正雪は髪を切って変装しているかもしれない。幕府側は警戒を強めますが…

当の正雪は、まさに妻の供述のままの総髪姿で、わずか10人で東海道を西へ上っていました。

丸橋忠弥が間借りしていた大岡源右衛門の息子の源三郎は丸橋忠弥の門人になっており、その大岡源三郎が由比正雪の味方となって通行手形を手配してくれたため、由比正雪は箱根の関所もゆうゆうと超えることができました。

それにしてもたった10人です。しかも変装もせず。不用心の極みです。駿府城と久能山を奪うといっても10人でできるわけはなく、どういうつもりだったのか?

駿府に入ってから味方が合流する手はずだったのか。それともとにかく事を起こせば全国の浪人が立ち上がると楽観していたのか。

軍学者としてはあまりに隙のありすぎる行動です。

7月25日夜、由比正雪一行は駿府入りし、梅屋太郎衛門方に宿を取りました。

「我々は紀伊大納言さまの家臣である。宿を取りたい」
「へいっ、へい…」

紀伊大納言とは徳川御三家の一つ・紀伊徳川家の祖・徳川頼宣(徳川家康十男)のことです。またえらいハッタリをかましたもんですね…

梅屋の捕物

由比正雪捕縛を命じられた駒井右京は、この日の三時頃、すでに駿府に入っていました。どこかで由比正雪一行を追い越したようですが…不注意で見逃したのか。それともあえて正雪一行を見逃して駿府に入らせたのか。

いずれにしても、由比正雪が梅屋太郎衛門方に投宿していることはすぐに幕府側に知れました。宿の主人が密告したようです。

「それっ!由比正雪を捕らえよ」

駒井右京の命令で駿府の町奉行・落合小平治(おちあい こへいじ)が与力・同心を動かして梅屋に押しかけます。

取り調べしたき儀があるから、町奉行所に出頭せよ。すると使いの者が顔を出し、ここにおられる方は紀州大納言殿の家来でござる。その上道中病を患い、出頭などとても…

いいから出頭せよと食い下がると、あいわかった。ではしばらく…と引きこもったきり、いくら待っても出てこない。東の空がしらじらと明るくなってきた頃、

いよいよ踏み込もうとしていると中から戸が開いて、大小を差した男たちが姿を現しました。

人数は九人。その中の一人は僧侶でした。その九人が一通り与力同心から確認を終えると、奥から一人の男かあらわれます。

髪は総髪。羽二重の袷を着て、藤巻柄の脇差を差し、杖をついたこの人物こそ、誰あろう由比正雪その人でありました。

「昨夜は患っておりまして、お目にかかれなくて失礼いたしました。それにしても夜中に押しかけて、何事でござるか。拙者は紀伊大納言殿の家臣でござるぞ。拙者に対してのことはともかく、これでは紀伊大納言殿に対してあまりに無礼ではござらぬか」

しかし、奉行所側はあくまで食い下がります。

「とにかく早々に参られよ。これ以上の問答は不要である」

「…相わかり申した。では車の用意をいたす。しばし待たれよ」

そう言って由比正雪はふたたび奥に入っていきました。

今か今かと待ちますが、いっこうに出てくる様子がない。そのうち、奥からかすかに刀や矢の音。

「あっ!」

障子を蹴破って踏み込むと、

「遅かった!」

由比正雪以下、座敷二間にまばらに並んで自害していました。しかし坊主一人ともう一人は生きていて捕らえられました。正雪の死骸の枕元には、鼻紙二枚につづった書置きがありました。

「心無い者は讒言するでしょうが、これは天下に野心を抱いた謀反とはまったく違います。どうして私ごときが徳川四代の天下を倒すことなどできましょう。

しかしながら天下に正しい道が行われず、上から下まで困窮しているのを見て悲しまない者はございません。そこで上下困窮の原因である酒井忠勝らの罷免を求めて決起を企てたのです。

紀伊大納言殿の御名をお借りしましたが、私が大納言殿の家来だというのは偽りです。そう言わないと人が集められないから、偽ったのです。私は誰からも扶持を受けていない浪人でございます」

由比正雪の生年は不明で、したがって享年も不明ですが、静岡県葵区の菩提樹院には「由比正雪の首塚」があります。

大阪で決起する予定だった金井半兵衛は、8月13日、天王寺で自害しました。その書置きには由比正雪の人柄の正しさをほめたたえ、けして私利私欲で決起したのではない。

前将軍御他界後、天下が乱れ困窮しているのを見て、わずかな浪人で決起し政治を正そうとしたのだとつづられていました。

乱の意義

関ヶ原の合戦以来、天下に浪人があふれ困窮している。その状況を見て、何とかしようと由比正雪は決起を思い立ったようです。

事件の後、幕府では詮議が行われます。今後はなるべく浪人を出さない。すでに浪人している者はできる限り再任官させるという方向に決まりました。

由比正雪の決起は失敗に終わり、関係者のほとんどは処刑されました。しかし正雪の問いかけは幕府に届き、武断政治から文治政治へ切り替わるきっかけとなりました。

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解説:左大臣光永