島原の乱

こんにちは。左大臣光永です。またも台風がキョウレツに吹き荒れましたね。

私は本日、滋賀の知り合いの所に行く予定だったのですが、琵琶湖の時化を警戒し、延期としました。残念なことです。次回に希望を託します。

さて先日新商品を発売しました。「聴いてわかる。日本の歴史~天下統一への道 信長・秀吉・家康」です。すでに多くのお買上げをいただいています。ありがとうございます。

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しばらくこの商品に関連して、戦国時代・江戸時代の話をお届けしていきます。

本日は、「島原の乱」です。

↓↓↓音声が再生されます↓↓

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島原・天草の圧政

戦国時代。

九州の島原は有馬晴信が、天草は小西行長が治めていました。どちらもキリシタン大名でした。

有馬晴信は、キリスト教を保護する一方、仏教徒を迫害し、神社仏閣を破壊し、領民にキリスト教の信仰を強制しました。

島原・天草
島原・天草

しかし江戸時代に入ると慶長17年(1612)、幕府は禁教令を発布。キリシタンへの締め付けを強めていきます。

島原藩松倉氏と天草を領有する唐津藩主寺沢氏は、キリシタンを激しく弾圧しました。

島原 武家屋敷跡
島原 武家屋敷跡

島原では改宗しない者は生きたまま雲仙岳の火口に投げ込まれました。

天草では信者に熱湯をかけ火あぶりにして、海に投げ込んだりしました。

また、農民への取り立ても厳しく容赦ないものでした。

年貢を払えない農民は捕らえられ、蓑でちまき状に巻かれ火をつけられました。

あっ、あああーーっ、あづ、あづあづーーーっ

お父、お父

あなたぁーーー

炎に包まれ、ごろごろと転げまわる農民。柵の向こうで泣き叫ぶ妻子。

「ぎゃーーーーっはっはっっははああーーーーっ
蓑踊りじゃあああああああああああああああ」

腹を抱えて笑い狂う役人たち。

さらに、

寛永11年(1634)以降、飢饉が続きました。それでも年貢の負担は減らされなかったので、農民たちはいよいよ追い詰められていきました。

天童あらわる

島原の領民たちへの苛烈な取り立てと凶作が頂点に達した寛永14年(1637)秋、一つの流言が広がります。

それは23年前に島原を追放された宣教師マスコスの預言として、

「今から25年後、16歳の天童があらわれる。彼は生まれながらにあらゆる道に通じ、やすやすと奇跡を起こす。天は東西の雲を焦がし、地には時ならぬ花が咲く。国土は鳴動し、家々や草木は焼け滅びる。人々は首にクルスを巻き、山野にはたちまち白旗がたなびき、キリスト教の勢いは異教をのみこみ、天帝はあまねく万民を救う」

また天変地異が相次ぎます。空が赤く焼け、秋なのに春の花が咲きます。将軍家光が病の床についてもういくばくもないという噂も流れます。

「時は近づいた!今年中には肥前・肥後が。来年中には九州全体が、一二年のうちに日本全体がキリスト教に改宗するであろう!疫病が流行し、クルスを首に巻かぬ異教徒どもはことごとく死に絶えるであろう!」

北村西望作 祈りを捧げる天草四郎像
北村西望作 祈りを捧げる天草四郎像

このころ、大矢野島に益田甚兵衛(ますだじんべえ)という浪人がありました。主君・小西行長が関ヶ原で没落した後は再任官もかなわず、百姓同然で暮らしを立てていました。この益田甚兵衛に、四郎時貞(ときさだ)という息子がありました。見目うるわしく体格は堂々として学問に通じていました。

「この方こそ預言にある天童だ」

島原のキリシタンたちはそう信じました。

一揆の始まり

事件の発端はごく小さな出来事でした。

寛永14年(1637)10月23日、島原有馬村南の百姓二名が天草の大矢野に渡り、益田四郎時貞よりキリスト教の洗礼を受けました。

百姓二名は四郎からキリストの絵像を授けられて持ち帰り、これを拝んだ700人ほどがキリシタンになりました。

翌24日、事の次第が島原城に報告されます。なに700人がキリシタンに!けしからんということで同心頭を集会所に派遣したところ、すでに大勢集まっていました。

ええい、どけ。どけ。

同心頭はかき割っていき、騒動のもととなった百姓二人を逮捕しました。

またこの日、島原と天草の間に浮かぶ湯島では、各村のキリシタン代表がひそかに集まり、天草四郎のもと秘密会議を開いていました。

湯島(談合島)
湯島(談合島)

その結果、翌日から各村で寺を焼き払い、僧侶を殺し、自分たちのキリシタンであることを明かそうと決まりました。

翌25日、島原の有馬村原尾という所でキリシタンが集会を開いているという情報が島原城に入ります。

代官・林丘左衛門が駆けつけると、すでに大勢集まっていました。やめいキリスト教は許さんぞと、林丘左衛門がキリストの絵像を引き破ると、

「何しやがる!」
「異教徒めが!」
「死んどきゃあ!!」

逆上したキリシタンたちは林丘左衛門に襲い掛かり、林丘左衛門が抵抗する暇も与えず、殴り、蹴り、林丘左衛門をなぶり殺しにします

「こうなったら引き返せない」
「やる所までやるんだ!」

すぐに各村に飛脚を立てると、各村で、キリシタンたちが蜂起します。今まで領主からさんざん虐め抜かれてきたキリシタンたちが、今度は復讐する番でした。

彼らは寺を、神社を焼き払い、僧侶を殺し、通りがかりの旅人にも襲い掛かって、磔にして殺しました。

足だけ逆さに出して生き埋めにされた者、馬で引き回された者もありました。

島原城包囲

一揆勢は島原の町に乱入し、寺や神社を燃やし、家々に火をつけます。

「ひ、ひいいッ…助けてくれえッ」

島原の百姓たちは島原城に逃げ込みました。このような時に領民を保護するのも、城の役目です。

島原城 復元天守
島原城 復元天守

「異教徒どもを皆殺しにしろ!」

「デウスさまを信じない者は地獄行きだ!」

暴徒の群れと化した一揆勢は島原城に押し寄せ、大手門で戦闘が行われます。一揆勢はまさかりで木戸口を叩き壊す、守備兵はその切れ目から鉄砲を射撃する。…そんな戦いが夜の10時まで続きました。夜12時ころ、ようやく一揆勢は引き揚げます。

大手門前には無数の死体が転がりました。その中には四人の女も含まれていました。そのうち二人は首に数珠を巻いていました。キリシタンたちは異教徒は皆殺しにすると宣言しており、事実、それを実行に移しつつあったのです。

本渡合戦

時を同じくして海を隔てた天草上島でもキリシタンが一揆を起こしました。島原の一揆と連動しての武装蜂起でした。天草のキリシタン勢は寺や神社を焼き討ちにしながらクルスの旗を立てながら進みます。

富岡城城代・三宅藤兵衛(みやけ とうべえ)は唐津藩の増援を得て鎮圧に乗り出しますが、

天草のキリシタン勢は、島原のキリシタン勢と合流。そして島原キリシタン勢の中には総大将の四郎時貞もいました。大いに士気上がる天草・島原のキリシタン勢。

11月14日、天草下島(しもしま)の本渡(ほんど)で富岡勢と合戦になります。富岡勢はキリシタン勢にさんざんに打ち負かされ、富岡城に撤退。司令官の三宅藤兵衛も戦死してしまいました。

この時、久留米の町人が船から降りてきた天草四郎をたまたま目撃して、その記録を残しています。数少ない天草四郎目撃証言のうちの一つです。

「四郎出立は、常の着る物の上に白き綾を着、裁着(たっつけ。旅行用の袴)を着、かしらには苧(からむし。アサやカラムシの繊維を紡いだ糸)をもって三つ編にして当て緒をつけ、のど下にて留め、額にちひさき十字を立て申し、御幣を持ちて惣勢下知仕り候」

富岡城包囲戦

本渡合戦に勝利したキリシタン勢はいよいよ士気上がり、天草上島北岸の五領村に侵入。村を焼き討ちにします。

「あわわ…乱暴はやめてください!!」

「ええーーいデウス様に逆らうか!!」

ずばあ
ぎゃああああ

「異教徒に死を!!

ドスウゥゥッ

ぎゃぁああああ

容赦ない殺戮。燃え上がる炎。なんとか一命を取り留めた村人たちは船で海上に逃れますが、そこへもキリシタンの追手が迫り、

「キリシタンになるなら仲間に入れてやろう。
さもなくば異教徒は死ね!!」

「う…うう…わかりました」

こうして大勢が無理やり改宗させられます。ヤクザも真っ青の鬼畜っぷりです。

一方、唐津兵は富岡城にこもっていました。富岡城は天草下島の西北の、海に突き出した岬の上にある天然の要害です。

そこへキリシタン勢が大挙して押し寄せます。その陣頭には、本渡の合戦で討ち取った三宅藤兵衛以下、五人の首を掲げていました。

「この者たちはキリシタンに敵対したので討ち取ったのだ」

それが彼らの理屈でした。また、三宅藤兵衛は合戦の前にキリシタン六人を処刑しており、そのことへの報復という意味もありました。

11月18日。キリシタン勢は富岡城南の志岐に陣取りました。

翌19日から城攻めが始まります。しかし…富岡城は突き出した岬の上に築かれた天然の要害。にわか仕立てで武器を取ったキリシタンたちに、簡単に落とせるものではありませんでした。キリシタンたちは鉄砲300挺用意していましたが、むなしく石垣に玉が当たるばかりでした。

「これでは…城攻めなどムリだ」

11月23日。キリシタンたちは富岡城の包囲を解いて撤退をはじめました。

しかし志岐から本渡まで…かんたんには撤退できませんでした。

「さんざんバテレンを押しつけやがって!」

「バテレンどもめが!!
おまえらのインチキ宗教にはうんざりなんだよ!
クルス抱いて海にでも沈んどけゃワレゃ!!」

キリシタンからさんざんキリスト教を強制された村人たちが今度は大挙して襲い掛かり、復讐する番でした。キリシタンたちはあそこここに打ち取られ、屍をさらします。

天草四郎時貞は、わずかな供回りとともに海をわたり、島原南部の口之津(くちのつ)へ逃げ延びます。そこへ、松倉勝家が江戸から戻り島原に入ったことと、佐賀藩の先手が島原半島西口の唐比(からこ)まで迫っている知らせが届きます。

「こうなったら原城に立てこもるのみ」

幕府、鎮圧に乗り出す

さて島原で一揆が起こったわけですから、近くの熊本藩や佐賀藩が鎮圧に出ていけばいいところなんですが…両藩とも、ただ状況を見守るばかりでした。

これより2年前の寛永12年(1635)徳川家光より出された改訂版「武家諸法度」のためです。そこには「たとえどんな事件が起こっても大名はその場所を守り、江戸からの指示を待つこと」そう書かれていました。

それで熊本でも佐賀でも、隣の島原で大騒ぎになっていることは重々承知ながら、幕府の指示が届くまで何一つ手出しができなかったんですね。

11月8日、島原で一揆起こるの知らせが江戸城に届きます。

「キリシタンどもを鎮圧せよ!!」

すぐさま徳川家光は板倉重昌を小倉に下らせます。11月27日、小倉着。板倉重昌から九州諸藩に一揆を鎮圧するよう通達が行き、諸藩はようやく動けるようになりました。

原城の戦い 翻弄される幕府軍

一揆勢は幕府軍が乗り出してくると島原城・富岡城の包囲を解き、島原南部の原城に向かいます。その勢3万7千。

原城
原城

原城は海に面した切り立った崖の上にある堅固な城です。松倉氏によって島原城が築城された後は一国一城令により廃城になっていました。

原城 本丸
原城 本丸

12月8日、板倉重昌は島原の松倉氏、肥前の鍋島、久留米の有馬、柳川藩の立花などを率いて、原城に攻撃にかかります。しかし。

島原・天草
島原・天草

幕府軍は寄せ集めの烏合の衆で、まったく統率が取れていませんでした。あるいはふてくされて動かず、あるいは手柄を競い合って先駆けしているうちに一揆側に集中攻撃され、さんざんな被害が出てしまいます。

報告を受けて江戸の徳川家光は、板倉重昌ではムリと判断。老中松平信綱を新しい指揮官として島原に向かわせることにしました。

原城の戦い 模型(島原城 キリシタン資料館)
原城の戦い 模型(島原城 キリシタン資料館)

「ああ…私の落ち度になってしまう!」

板倉重昌は何とか次の指揮官が到着する前に手柄を立てなければと焦ります。そこで翌寛永15年(1638)正月元日、原城に総攻撃を仕掛けます。

しかし!

ある者は先駆けし、ある者はふてくされて攻撃に参加せず、てんで話にならない。

「ええい、もうこうなったら一人でやるわい!!」

ついに総司令官の板倉重昌自ら原城の石垣をよじ登り、城内に討ち入った所を、一揆勢にさんざんに斬り殺されてしまいました。

「おい、ひょっとして幕府軍は、アホなんじゃないのか?」
「信仰は勝利!!ハレルヤ!」

バタバタバタバタ…

ひるがえる天帝の旗。

鳴り響く賛美歌。

大いに士気上がる一揆勢。

そのうち一揆勢の一人が城壁の上に飛び上がり、

「お?どうしたどうした。いつも年貢だなんだ威張り散らしてるあの勢いはどこいった?ちったあ根性見せてみろやワレ」

そんなふうに挑発すると、城内からどおっと笑いがあふれました。

城内の様子

さて城内の様子を言えば、

本丸には古き石垣がそのまま残り、棟高き家が二つ見える。これは寺であって、天草四郎時貞が勤行をしている。城中の者が四郎を崇めることは「六条の門跡よりも上」であり、下々の者は頭を伏せて、四郎を仰ぎ見ることもできないほど、畏れている」

二の丸にも三の丸にもすき間なく小屋が立っている。塀の内側に七八尺ほど穴を掘って人員が詰めている。小屋の中にも穴を掘り、鉄砲を防ぐ塹壕としている。

鉄砲を撃つのはこちらから攻めた時だけで、ふだんは撃たない。火薬を温存しているらしい。

総攻撃の時は女どもまで襷をかけ、額にクルスを当てて、鉢巻をして、石つぶてを雨のごとくを投げてくるので、攻撃側は勢いくじかれて、撤退した。

…とこんなふうに記録されています。

オランダ船から砲撃

正月4日、松平信綱 島原着陣。また江戸から鍋島や島原の藩主も下り、加えて黒田・細川の軍勢も加わり、総勢12万となりました。この松平信綱という人は将軍徳川家光のお気に入りで、智慧の発達した人物でした。伊豆守で、しかも智慧が発達していることから「智慧伊豆」の異名を取る人物でした。

「正面から攻めてもラチがあかん。
ここはオランダに協力を仰ぐこととしよう」

そこでオランダ商館長クーケバッケルに依頼してオランダ船に海から原城を砲撃させますが、

「たかが百姓一揆のために外国の手を借りるとは! それではわが国が舐められてしまうのではないですかな!」

こういう声が相次いだので、すぐにやめました。

次に鉱夫に命じて原城までトンネルを掘ろうとしましたが、一揆勢は幕府側の策に気づき、煙でいぶしたり坑道に糞尿を流し込んで抵抗。なかなかうまく行きませんでした。

矢文

1月10日、松平伊豆守信綱は、原城に矢文を射こませます。その文面は、

「何の故にこのような無益な一揆を起こすのか。上様に不服があるのか。それとも領主に不服があるのか。望みがあるなら申してみよ。もし和議に応じるなら、農村に帰ることを許す上、当面は年貢を免除しよう」

1月13日、返事の矢文が届きます。

「我々は上様に不服があるのではない。領主に不服があるのではない。ただ我ら信じる宗旨に従い、たてこもっているのだ」

幕府軍首脳部は頭をかかえました。

「まったく、面の憎きことを申すキリシタンどもよ…」

松平信綱の書状

2月1日、松平信綱は天草四郎の甥・小平に書状を持たせて、原城内に届けさせます。幕府軍は、四郎の母マルタ、姉ふく、妹まん、ふくの息子小平らを捕虜として、島原の陣営に連れてきていたのです。書状にはこう書きました。

「キリシタンが殉教しようが、飢えて死のうが、それは勝手にすればよい。ただし強制的にキリシタンにした異教徒と、今からでもキリスト教を捨てようという者は助けたい。この者たちを城外に出すならば、四郎の母、姉、妹らを城の内へつかわそう」

さあ今度はうまくか?幕府側は期待をよせます。しばらくして。小平は柿やみかん、まんじゅうなどの入った袋を持たされて、島原の陣に返ってきました。返事は、

「われわれ城中の者は、天主に対し身命を賭す覚悟である。
また、異教徒を強制的にキリシタンにしたことはない」

異教徒を強制的にキリシタンにしたことはない、というのはウソです。

村を焼き、武器を突きつけ、いやがる浄土真宗信者などを無理やりキリスト教徒にして原城の中に強制連行し、しかも逃げ出さないように見張りまでつけていました。

どうやらバテレンの世界では信仰のためのウソは許されるらしいですね。

総攻撃

しかし、一揆勢もさすがに食料が尽きてきました。城内では海藻や麦を食って飢えをしのいでいましたが、寒さも加わり、もう限界でした。

「今が攻め時である」

2月27日、12万の大軍をもって原城に総攻撃をかけます。本当は翌日の28日の予定でしたが、鍋島兵が抜け駆けして、他の藩も釣られたので、なし崩し的に総攻撃が始まったのでした。幕府軍は最後の最後までバラバラでした。

天草四郎の最期

ここに細川忠利の家臣・陣左衛門は天草四郎の館に駆け入ると、絹の衣をかぶって臥せている男がある。

その脇には女が一人。男は陣左衛門の足音に驚きハッと衣を掲げると、陣左衛門すかさず刀をふるい、ずばっと首を斬り飛ばす。首を持って外に駆けだしたところで、ごおーーっと館が焼け落ちました。首を見ると、

…若い。しかも見目麗しき美少年。これはもしや!

しかし、甚左衛門のほかにも天草四郎らしき首を討ち取った者が数十名おりました。そこで、四郎の母マルタに検分させます。ところがマルタは冷静なもので、

「四郎殿はわが子ながら天使でございます。姿を変えて南蛮ルソンにも逃れておりましょう]

しかし、一つの首の前に来ると、

「苦労したんだねえ…」

つぶいて涙を流した。これにより首が天草四郎のものと知れた、という話が伝わっています。

一揆勢にもはや抵抗の余力は無く…

天草四郎以下、城内の老若男女37000人はほとんどが殺害されました。幕府軍の戦死者は1151人、負傷者6743人と記録されています。

宮本武蔵の参戦

ところで島原の乱に参加した、有名な剣豪がいます。

宮本武蔵です。

宮本武蔵は島原の乱に、豊前中津の小笠原勢の騎馬武者として参加しました。

また武蔵の養子の伊織は中津藩の本家筋にあたる小倉小笠原藩の家老として2500石の扶持を受けており、島原の乱には侍大将として参加しています。

中津小笠原藩主・小笠原長次はこれが初陣でしたので、武蔵は藩主の周りで19騎を率いて、小倉藩と連携を取りながら護衛しました。

2月27日28日の原城総攻撃にも武蔵は前線で活躍したようで、一揆軍の石が当たってすねを怪我したという書状が残っています。

戦後

「かかる大事に至ったのは、島原城主松倉重治、天草領有の寺沢堅高が領民から過度に取り立てて悪政を行ったためである」

幕府は島原城主松倉重治、天草領有の寺沢堅高両名に処分を下しました。松倉重治は美作に配流後、斬られました。寺沢堅高は天草領を没収され、後日、自ら腹を斬りました。

また家光は武家諸法度の解釈をあらためます。「たとえどんな事件が起こっても大名はその場所を守り、江戸からの指示を待つこと」…今回、この武家諸法度第四条がカセとなって、熊本藩・佐賀藩が動けませんでした。その反省から、

「公儀の定めを破るものや国法に反するものがあれば、幕府の指示を待たずに出動して鎮圧せよ」

との解釈が加えられました。

島原の乱によって、もともと強かった幕府の反キリシタン感情は、頂点に達しました。

徳川家光は日本からキリシタンを根絶やしにする覚悟で、徹底した弾圧に乗り出しました。そして貿易の利益を減らしても、キリシタンとのつながりを断つことのほうを選びました。

寛永16年(1639)、ポルトガル船来航禁止令が出され、いわゆる「鎖国」が完成します。島原の乱はこの後200年あまり続く鎖国体制の、直接の原因となりました。

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