水野忠邦(三) 天保の改革(ニ)

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市民生活の統制

町人の生活もビシバシ取り締まりました。まずは祭礼緊縮令を出して、祭りにおける出し物や派手な衣装を禁じました。

それを皮切りに、生活のあらゆる面で贅沢を取り締まりました。菓子、料理、雛人形、雛道具、きせる、破魔弓・羽子板などに、金銀の金物や箔をつけたものを禁じました。

夫人の衣服、くし、こうがい、簪なども高価なものは禁じました。市民生活を微に入細に入り監視するため、市中取締掛とか市中風俗取締掛などと称する役人を使いました。質素倹約による収入よりも、そういう役人の手当のほうがよっぽどかかりそうに思いますね。

金製、銀製の道具の所持を禁止しました。すでに所持しているものは目録を提出させた上、取り上げました。家屋についても禁じました。たとえばふすまに箔を押したような贅沢なものを禁じました。また石灯籠や石手水・庭石も禁じました。

湯屋における混浴を風紀の乱れであるとして禁じました。そして男湯・女湯の設置を義務づけました。

幕府公認の吉原以外の岡場所をぜんぶ取り潰しました。料理茶屋・水茶屋などは商売替えを命じました。そこのお抱え女は申し出れば吉原で召し抱えました。しかし申し出る者があまりに多かったので、これでは風紀の乱れであるといって、実際には召し抱えず、商売替えをすすめています。

江戸だけではありません。京都・大坂・伏見・堺・奈良・山田・駿府・佐渡・日光・浦賀の奉行に対し、幕府公認の遊郭以外の岡場所は取り払いうよう命じました。

庶民の娯楽を奪い取ることに、水野忠邦は貪欲なまでに熱心でした。

化政期から天保期にかけて女浄瑠璃をはじめとする芸能が流行し、市中に500以上もの寄場(寄席)が作られていました。そのうち15箇所だけ残し、後はすべて取り潰しました。演目も、神道講釈・心学・軍事講釈・昔話以外は禁じました。つまんない話ばかりです。寄席はすっかりさびれます。

女髪結・女師匠・女義太夫・女浄瑠璃・矢場女(楊弓場で客の相手をする女)、すべて禁じました。

男女の逢瀬も禁じました。それと知りながら宿を提供した者は厳しく罰せられました。江戸城外堀での釣りは江戸っ子の楽しみでしたが、これも禁じました。花火・店先での碁・将棋も禁じました。

出版物も、大いに取り締まりました。政府や時事問題を風刺したものを禁じました。役者・遊女・女芸者などを描いた錦絵を禁じました。けばけばしい色彩を使った高価な絵草紙類を禁じました。

ただし、忠孝貞節や勧善懲悪をテーマとした、地味な色彩のものは許可しました。文科省推薦図書みたいなつまんないものしか認めないということです。そりゃ出版文化もすたれます。

実際に処罰される作者もありました。

『江戸繁昌記』の寺門静軒(てらかど せいがん)、『偽紫田舎源氏』の柳亭種彦(りゅうてい たねひこ)、『春色梅児誉美(しゅんしょくうめごよみ)』の為永春水。これらは内容が破廉恥でケシカランということで作者が処罰され、版木も没収されました。

歌舞伎も取り締まりました。

日本橋の堺町中村座・葺屋町(ふきやちょう)市村座・木挽町森田座は江戸三座といわれ人気をはくしていましたが、火事を起こしたのをきっかけに、これらを江戸の辺境・浅草に追いやりました。浅草の移転先は猿若町と名付けられました。以後、浅草猿若町は江戸歌舞伎の中心地となります。

娯楽を奪われた江戸市民は怒り心頭に発します。

「芝居はおつ立(たて)、素人つき合ちつともならねへ、千両役者も浄瑠璃役者も一つに集めてぬつぺらぼんのすつぺらぼんの、坊主にしようか奴にしようか、あげくの果には義太夫娘を手錠で預けて、面白そふなる顔付するのは、どんな魔王の生れ変りか、人面獣心古今の悪玉」といって水野忠邦を罵りました。

座長の中には1500両も取る高給取りがいるのはけしからん。今後は座長は500両にせよと命じます。芝居が高い金を生むのは、それだけ多くの人々に喜びを与えているからなのですが…何一つ生産しない、ただ人の生産物を掠め取りブタのように肥え太るばかりの幕府役人たちには、そんな発想は露ほども出てこないのでありました。

取締はさらにエスカレートし、恐怖政治の様相を呈してきました。

ある女性が、禁じられている本繻子の帯をしめ、大丸から買った紅の本絹を持って歩いているところを、幕府の役人に見つけられ、皆が見ている前で着物をはぎ取られました。

「買いだめし」といって、客に化けた同心が店で禁制品を売ってくれとしつこく迫り、根負けして売ると、すぐに店の主人が町奉行所に呼び出されて処罰されました。

また縄付きの囚人に化けて町会所にまぎれこみ、さかんに改革を非難する。そこで相槌を打ったものがいれば、後に呼び出されて、処罰されるといった具合でした。

こうした検挙活動にあたる同心と、その手先の使っていた目明(めあかし)も、ロクでもない連中でした。袖の下を取って取締に手心を加えたり、権柄尽くで金品をねだったり、無銭飲食をする者がありました。そこで町奉行所は彼ら同心・目明に対する監視をもつけなければなりませんでした。

美人の隠密に派手な着物を着せて歩かせ、同心が職務質問すると、しなを作って一ニ両、懐につっこむ。鼻の下のばして見逃してやると、後日町奉行所から呼び出されて処罰されるという仕組みでした。

これでは何のための「質素倹約・綱紀粛正」か、サッパリわかりません。

取締につぐ取締により、消費は冷え込み、不況になり、特に江戸は恐慌状態に陥りました。呉服商など、禁制品を扱う店は閉店や業務縮小を余儀なくされ、そこに出入りしている職人も仕事を失いました。

大坂では「御改革に付、身上立行難く是非なく縊死(いし)す」と心斎橋のそばに書き残して、縫物職人が自殺したと記録されています。しかし幕府は「町人の分際で政道を非難するとはけしからん」といって、葬式を出すことを許さず、死体は取り捨てるよう命じたといいます。

水野忠邦は、財政難も、幕藩体制の行き詰まりも、物価の高騰も、すべては「奢侈(ぜいたく)」から来ている、だから奢侈(ぜいたく)を禁じさえすれば、すべてよくなるという固い信念を持っていました。バカがトップに立つとメチャクチャになるといういい例です。

解説:左大臣光永

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