松平定信(五)海防策

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北方の警備

林子平『海国兵談』

寛政3年(1791)林子平が『海国兵談』を出版しました。この頃、ロシアが南下して今にも蝦夷地まで迫らん勢いでした。林子平は江戸に生まれ、仙台藩に仕え、江戸で蘭学者たちと交わりました。また長崎に赴いてオランダ商館長からロシア情報を得ていました。林子平はロシア南下の危機感を強く抱いていました。

『海国兵談』の中で、林子平は説きました。

江戸の日本橋より中国・オランダまで海はつながっている。だから西欧諸国はいつでも日本に乗り込んで来れるのだ。四方を海に囲まれたわが国は、それ相応の守りをしないといけない。そのためには船だ。大砲だ。

つづけてオランダ船と大砲を紹介してありました。

『海国兵談』は寛政3年(1791)出版されます。しかし、松平定信は、いたずらに無用の説を立てて人心を惑わせるものであるとして『海国兵談』を出版停止にした上、版木も没収しました。その時、林子平は無念の気持ちをたくして、

親もなし 妻なし子なし 版木なし 金もなければ 死にたくもなし

寛政4年(1792)5月、林子平は蟄居を命じられ、翌寛政5年6月に病死しました。

ラクスマン来航

寛政4年(1792)ロシア使節ラクスマンが根室(北海道根室市)に来航しました。ラクスマンは伊勢の漂流民大黒屋光太夫らを連れていました。その目的は、漂流民を江戸で引き渡し、国書・献上物を渡し、日本と通商を開くことでした。

すぐに松前藩から幕府に連絡が行きます。

「どうしたものか」

松平定信は幕閣を集めて話し合い、統一見解を出しました。

一、国書、献上物は受け取らない
一、江戸での漂流民受け取りは拒否する
一、通商を求めるなら長崎へ行って交渉しろ

翌寛政5年(1793)幕府の使者が根室に行って、ラクスマンから大黒屋光太夫を受け取ります。ラクスマンへは長崎の入港許可証である信牌(しんぱい)を渡しました。

幕府のお墨付きを得たラクスマンは安心したのか、そのまま長崎へは行かず、オホーツクに帰港しました。

海防策

ラクスマン来航事件により幕府は悟ります。林子平の『海国兵談』は嘘ではなかった。たしかに外国は驚異だ。守りを固めなくてはいけないと。

そこで松平定信は、江戸湾防備計画を打ち立て、相模・伊豆・房総半島の沿岸部を視察させ、みずからも視察しました。

しかし計画発動4カ月ほどで松平定信は辞職を命じられます。これにより江戸湾防備計画は一時、お蔵入りとなりました。

レザノフ来航

松平定信失脚後の対ロシア関係について。

文化元年(1804)レザノフがラクスマンが受け取った信牌をもって長崎に来航します。ところが長崎奉行はレザノフを拒絶しました。レザノフは出島に半年間とどめ置かれた後、カムチャッカに旅立ちました。これによって日本とロシアの関係は悪化。以後10年余り、紛争状態となります。

再開する江戸湾防備計画

文化4年(1807)から5年(1808)にかけて、ラクスマンは北海を航行中に部下に命じて、カラフトのクシュンコタンとエトロフ島を襲撃させます。

幕府は危機感を高めます。いよいよロシアと戦争になる。江戸が危ないと。

文化4年(1807)には東蝦夷地に加えて西蝦夷地も直轄地として、北方の守りを固めました。文化7年には松平定信の失脚によって頓挫した江戸湾防備計画が再開されました。房総半島・三浦半島を中心に、諸藩に命じて守りを固めさせます。そんな中、

ゴロヴニン事件

文化8年(1811)、事件が起こります。ロシアの海軍少佐ゴロヴニンが、クナシリ島で幕府の役人に捕らえられたのです。ゴロヴニンの目的は南千島と間宮海峡沿岸の測量でした。やましい所はありませんでした。しかし幕府の役人は聞く耳を持ちませんでした。ゴロヴニンは松前に二年も幽閉されます。

そこでロシアではエトロフに船をやり、日本人高田屋嘉兵衛を捕えて事情をききます。なるほど、そういうことでしたかと、高田屋嘉兵衛はゴロヴニンの釈放のために幕府に働きかけ力を尽くしました。ロシアも、ラクスマンの部下のカラフト・エトロフにおける暴行事件を侘びました。

こうして険悪だった日本・ロシアの関係に雪解けムードが見えてきました。こうして文化10年(1813)ゴロヴニンは高田屋嘉兵衛と交換という形で釈放されました。

ゆるむ海防意識

ロシアとの緊張が解けると、幕府はとたんに危機感をゆるめました。なあんだ戦争にならないんだ。じゃ、無理することないじゃんと。東西の蝦夷地も幕府直轄をやめて松前藩の管理としました。江戸湾防備計画も、大幅に縮小し、実質、中止となりました。喉元すぎれば何とやらです。

フェートン号事件

しかし、幕府が北方の守りに気を取られている間に、南からはアメリカやイギリスが接近していました。文化5年(1808)イギリスの軍艦フェートン号がオランダ船を追って長崎に来航し、暴行を働くという事件が起こりました。

異国船打払令

その後も、アメリカ・イギリスの捕鯨船がたびたび日本近海に接近するので、文政8年(1825)幕府は異国船打払令を出しました。あくまでも鎖国体制を守り抜こうとしたのです。

モリソン号事件

天保8年(1837)江戸湾入り口にアメリカの商船モリソン号が接近しました。その目的は、日本人漂流民の返還と、通商を求めることでした。しかし浦賀奉行は異国船打払令にのっとり、モリソン号を砲撃します。モリソン号は江戸湾を退かざるを得ませんでした。今度は鹿児島に行って、漂流民を引き渡そうとしました。が、またも砲撃されました。ダメだもう話にならん。ついにモリソン号は漂流民引き渡しを諦め、マカオに帰還しました。

解説:左大臣光永

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