三代家光(八)参勤交代の制度化

寛永11年の上洛

寛永11年(1634)7月、家光は30万の人員を率いて上洛します。元和9年(1623)、寛永3年(1626)につぐ、三度目の上洛でした。祖父家康にも、父秀忠にもまさる、大規模な動員数でした。

なぜこの時期、家光はこれほどの大掛かりな上洛をあえて行ったのか?それは、寛永9年に大御所秀忠が亡くなり、いよいよ本格的に家光の時代に入った。天下を治めるのは私であるぞとの大々的なアピールするためでした。

6月20日、江戸を出発。東海道の宿々に泊まりながら、7月11日、二条城に入りました。

勅使が、院使が、諸大名が、大寺社が、家光一行を迎え礼をつくします。

この上洛中、家光は内裏にて姪にあたる明正天皇に拝謁し、院の御所にて妹である東福門院を訪ねました。また院に7000石を献上して、後水尾上皇による院政を承認しました。

徳川和子・後水尾天皇・明正天皇
徳川和子・後水尾天皇・明正天皇

秀忠は紫衣事件などで後水尾天皇と確執があり、しばらく幕府と朝廷は気まずい関係が続いていました。家光はそれを解消し、幕府と朝廷の友好的結びつきを強めようとしたのです。

大徳寺の沢庵宗彭(たくあん そうほう)を赦免したことは、幕府と朝廷の融和をはかるという家光の方針のあらわれでした。

参勤交代の制度化

寛永12年(1635)家光は武家諸法度を改定しました。初代武家諸法度は家康が作り、秀忠によって発布されました。家光はこの初代武家諸法度(慶長武家諸法度)に条文を加えたり、削ったり、家光時代の現状にあうように修正を加えました。

中にも、参勤交代の制度化は大きなことでした。「大名小名は交代で江戸に住まうこと。その交代時期は毎年4月とする」家光の寛永武家諸法度は、このように明確に定めています。それまでも参勤交代は行われていましたが、慶長武家諸法度にはざっくりした規定しかなく、時期や期間は決まっていませんでした。それを、条文としてしっかり定めた。これは家光が行った大きなことと言えます。

はじめは外様大名にだけ参勤交代は課せられましたが、寛永19年(1647)からは譜代大名にも義務付けられました。参勤交代を義務づける狙いは江戸幕府に対する忠誠心を見ることと、諸大名の経済力をそいで反乱を防ぐため…と長年見られてきましたが、

近年、「経済力を削ぐ」の部分は疑問が持たれています。そもそも諸大名の経済力が低下すれば幕府としても税収が減るわけで、いいこと無いです。単に経済力をそぐ目的で参勤交代を強制したというのは近年疑問が持たれています。

それよりも、軍事力の江戸への集中ということがあります。大名が江戸に上って一定期間滞在するわけですから、その間、軍勢を引き連れて来るわけです。たくさんの馬や武士が、江戸に滞在します。

それが、反対勢力への牽制にもなり、民百姓にまで「徳川の軍事力はすごいなあ」と知らしめる。そういう意図ではなかったかという説も出ています。

解説:左大臣光永