三代家光(三)生まれながらの将軍

元服と祖父家康薨去

元和2年(1616)竹千代元服。13歳でした。祖父家康はこの頃から病が続いていましたが 同年4月17日、ついに帰らぬ人となります。

三人の守り役

家康が亡くなって間もない元和2年(1616)5月、家光に三人の守役(教育係)が付けられます。

酒井忠利(さかい ただとし)
内藤清次(ないとう きよつぐ)
青山忠俊(あおやま ただとし)

彼らは家光付年寄衆として、家光の教育を担当しました。

西の丸入り

元和3年(1617)11月、家光は江戸城西の丸に入ります。西の丸は家康が住んだ所であり、西の丸に入るということは本格的に将軍跡継ぎとして家光が認められたことを示していました。

元服

元和6年(1620)9月。竹千代あらため家光と名乗ります。命名は、家康・秀忠・家光三代の将軍に仕え「黒衣の宰相」といわれた南禅寺の僧・金地院崇伝。そしてこの直後あたりに元服の儀式も行われたようです。

本多正純の失脚

家光が征夷大将軍に就任する前年の元和8年(1622)4月、大御所徳川秀忠は日光に参詣しました。その帰り道、秀忠は多くの家臣とともに宇都宮城に滞在する予定でしたが、急遽、予定を変更して下野壬生城(みぶじょう)に泊まりました。

宇都宮城は家康以来の幕府老臣・本多正純がおさめる城でした。

同年10月、秀忠は突如、本多正純に改易を申しつけます。

「そんなバカな!」

父正信と二代にわたって、家康公につくし、幕府草創に力を尽くしてきた本多正純。しかし、その末路はあっけないものでした。理由は諸説あってわかりませんが、ふだんから本多正純が宇都宮城について「俺にふさわしくない城だ」などと不満を言ったりしていたためのようです。

秀忠の日光社参の帰り道、宿泊予定の宇都宮城に本多正純が細工をして、秀忠の上の天井が落ちてくるようにした。いわゆる「宇都宮釣り天井」という話がまことしやかに伝わっていますが、これは俗説であり事実に反します。

家光将軍就任までの地ならし

本多正純のほか、出羽庄内の外様大名最上義俊(もがみ よしとし)をお家騒動に乗じて改易。徳川一門の大大名・松平忠直が参勤交代を怠っていることを理由に(異説あり)豊後に配流しました。

秀忠はこれら本多正純・最上義俊・松平忠直を処罰することによって、家光が三大将軍に就任する前の地ならしをしたのでした。将来背く可能性のある者は、疑わしきうちに摘み取っておこうと。

征夷大将軍

元和9年(1623)7月27日、家光は祖父家康・父秀忠と同じく伏見城で征夷大将軍の宣下を受けました。家光が上段の座に座り、公家たちが居並ぶ中、朝廷からの勅使が厳かに征夷大将軍の宣旨を家光に下しました。

8月6日、家光は征夷大将軍宣下のお礼のために行列を率いて内裏に参内。後水尾天皇に拝謁し、太刀や馬・金子を献上した後、酒宴となりました。

徳川和子

酒宴の後、家光は妹である徳川和子(まさこ)と対面しました。

「皇后陛下…御所でのお暮らしはいかがござりますか」

「まあ、家光、昔の通り、和子でよろしいのですよオホホ」

そんなやり取りもあったでしょうか。

徳川和子は家光の将軍宣下に先立ち、後水尾天皇に嫁いでいました。将来、後水尾天皇と和子の間に生まれた御子が天皇となれば、家光は甥を天皇として持つこととなります。徳川家と天皇家のつながりはいよいよ盤石。それを考えての政略結婚でした。

そして実際にこの年の正月、後水尾天皇と徳川和子との間に女子が生まれていました。後の明正天皇です。

結婚

元和9年(1623)将軍就任と同じ頃、家光は妻を迎えています。公家の鷹司信房の娘・孝子(たかこ)です。家光より二歳年上です。母お江与の方の推薦で妻として選ばれました。

しかし家光と鷹司孝子の結婚生活はうまくいかなかったようです。孝子は嫉妬深く、何かと家光に当たりました。そこで父秀忠が、困ったものだと孝子を江戸城吹上に移しました。以後、孝子は「中の丸様」と呼ばれます。

秀忠から家光へ

秀忠が三代将軍となったとはいえ、前将軍秀忠は健在であり大御所として政治の舵を取り続けました。秀忠から家光への権力の引き渡しは、かんたんには進みませんでした。

寛永三年の行幸

寛永3年(1626年)9月6日、後水尾天皇の二条城行幸が行われます。「寛永の行幸」です。

天皇行幸に先駆けて寛永元年から二条城の石垣の普請が行われ、伏見城の建物を移して城の大規模な改造が行われました。京都所司代板倉重宗と金地院崇伝は、天皇御一行を接待する準備を進めました。

寛永3年(1626)6月、大御所徳川秀忠は二条城入り。8月。将軍家光が淀城入り。

4000名の警護と豪華な食事で天皇御一行をもてなしました。後水尾天皇一行は5日間を二条城に過ごし、和歌・管弦・能楽の遊びが催され、日々酒宴が開かれました。

この「寛永の行幸」は、徳川の力を天下に示す一大デモンストレーションでした。また徳川和子が入内・女一宮(明正天皇)の誕生した時期でもあり、長く続いてきた朝廷と幕府のギクシャクした関係を終わらせようという意図もありました。

お江与の最期

後水尾天皇が還御した直後の寛永3年(1626)9月11日、、江戸から家光のもとに知らせが届きます。

「なに母上が…!!」

家光の母、お江与の方が危篤だというのです。

「こうしてはおれぬ!」
「兄上、お待ちください、ここは私が参ります」

すぐに江戸に戻ろうとする家光を留めて、弟の忠長が江戸に向かうことになりました。

「母上、お体の具合は!」
「おお、忠長か…」

お江与は弱りきっていました。

「母上、母上…ッ…不詳忠長、何の親孝行もできませんで…」
「わらわこそ、そなたを将軍にしてやることができずに…」

寛永3年(1626)9月15日、お江与は息を引き取りました。忠長の落胆ぶりはたいへんなものでした。

解説:左大臣光永