二代秀忠(六)秀忠の政策

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合議制を進める

秀忠の功績の一つに、合議制をすすめたことが挙げられます。家康の時代は家康とわずかな側近…本多正信、金地院崇伝、南海坊天海などの密室会議で政策が決まりました。

それは家康のような卓抜した能力とカリスマ性を持ったリーダーだからこそ可能なことでした。

しかし将来、暗君が出る可能性もある。凡庸な将軍が出ることもあるでしょう。というより家康のような卓抜した能力とカリスマ性は何百年に一度の逸材であり、歴史の奇跡と見るべきものです。

そこで秀忠は、年寄と呼ばれる複数の側近との合議制で事を決める体制を整えていきます。

このあたり、鎌倉幕府の三代執権北条泰時が、それまでのカリスマ的ワンマン体制を廃して合議制を取り入れた課程とよく似ています。

北条泰時も、徳川秀忠も、自分には初代のような能力もカリスマ性も無いとハッキリ自覚していました。だからこそ、皆で話し合って決めていくのだという話になっていったわけです。

「年寄」は後に「老中」と呼ばれ、江戸幕府を支える根幹のシステムとなっていきます。

徳川和子、後水尾天皇に嫁ぐ

秀忠は朝廷政策にも力を入れました。そのあらわれの一つが、娘の和子を後水尾天皇の女御として入内させたことです。

元和6年(1620)6月18日のことでした。

時に和子14歳。後水尾天皇25歳。和子は後に東福門院と号します。

徳川和子・後水尾天皇・明正天皇
徳川和子・後水尾天皇・明正天皇

秀忠の娘を入内させることは、そもそも家康の考えでした。家康は幕府と朝廷の結びつきを強めるため、また幕府にハクをつけるため、秀忠の娘の一人を入内させることを考えていました。

そんな中、大阪の陣が起こり、また家康自身が亡くなってしまい、計画は棚上げになっていました。しかし和子もいい年頃になったことだし、秀忠は家康の意向を汲んで、和子を後水尾天皇に入内させる流れとなりました。

和子の後水尾天皇入内により、徳川家は天皇家の外戚となりました。後水尾天皇と和子の間に生まれた興子内親王は、後に明正天皇として即位します。奈良時代の称徳天皇以来、859年ぶりの女帝です。

秀忠、大御所となる

元和9年(1623)秀忠は将軍職を子の家光に譲ります。家光は伏見城で三代将軍としての宣下を受けました。この時秀忠45歳。家光20歳でした。

しかし、秀忠は隠居といっても本当に政治の表舞台を去るつもりはありませんでした。父家康のように、隠居後も大御所として江戸城本丸にあって、権力を握り続けます。一方、家光は将軍でありながら西の丸にすまいました。秀忠から家光への権力の引き渡しは、かんたんには進みませんでした。

しかし寛永元年(1624)正月、秀忠は家光に軍事指揮権の象徴たる馬印を譲り、同年4月、西の丸に移ります。

当初秀忠は家康のように駿府城に隠居する案も持っていました。また小田原城という案もあったようですが、結局、秀忠は西の丸を隠居場所と定めます。以後、秀忠は死ぬまで西の丸に過ごしました。

秀忠の最期

秀忠は寛永8年(1631)から病気がちになります。朝廷や院・摂家・公家から見舞いの使者が江戸城を訪れ、伊勢神宮をはじめ神社・寺院で病気平癒の祈祷がされましたが、病状は悪化していきます。

同時に秀忠は眼病も患い、ついに片目が見えなくなってしまいました。なんとか年は越しますが、寛永9年(1632)正月24日、秀忠は江戸城西の丸にて帰らぬ人となりました。享年54。墓は芝増上寺にあります。

病の床にある秀忠に南海坊天海が尋ねました。

「先代さまのように、神号をお受けになりますか」

神号とは家康の「東照大権現」のような、神としての呼び名のことです。

秀忠は答えました。

「思いもよらないことである。先代さまは、数百年にわたる戦乱を治め、大きな功績を立てられた。私はただ先代さまの行いを、大事に守っただけである。何の功徳もない。とかく人は上にばかり目が行く。己の分際を知らぬことは、おそれ戒めるべきことである」

このように秀忠は万事、控えめで分をわきまえた人物であったようです。

解説:左大臣光永

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