二代秀忠(五)改易の嵐

松平忠輝の改易

元和2年(1616)4月17日、徳川家康は駿府城で没しました。遺骸は遺言によって、はじめ駿河の久能山に埋葬され、一周忌を待って、日光山に遷されました。これが日光東照宮です。

家康の死を受けて、三男の秀忠が跡をつぎます。すでに秀忠は慶長10年(1605)に二代将軍となっていました。しかし家康はその後も駿府にあって大御所として権力を振るい続けました。秀忠は江戸にあって、家康の決定した政策を実行に移すといった程度の役割でした。

しかし、家康が没したことにより、いよいよ本格的に秀忠の時代に入ります。

秀忠時代に入って、はじめに行われたことは松平忠輝の改易でした。

松平忠輝は家康の六男で、秀忠の弟です。伊達政宗の娘を妻としていました。

松平忠輝
松平忠輝

この忠輝が、疑いを持たるようなことをやらかしました。

元和元年(1615)5月、大阪夏の陣の最終局面において、西軍後藤基次隊・真田幸村隊・毛利勝本隊と、徳川の東軍が戦いました。その時東軍の先鋒を命じられたのが伊達政宗・松平忠輝でした。しかし伊達政宗隊が死者狂いの戦いをしたのに対し、松平忠輝隊は…何もしなかったと。

おそらく伊達政宗としては、娘婿の松平忠輝を死なせたくないという一心で前に出て、忠輝のぶんまで戦っていたものでしょう。

松平忠輝は戦おうとしたがチャンスがこなかったというだけでしょう。しかし、現場はそうは見ませんでした。松平忠輝は戦わなかった。高みの見物をしていた。そう家康に報告されます。

忠輝は弁解のために駿府城を訪ねますが、すでに家康は病の床についており、しかも秀忠が面会を断ったので、謝罪の機会も与えられませんでした。

また、松平忠輝は謀反の疑いをかけられていました。義理の父である伊達政宗の後押しで、徳川幕府を転覆しようとしていると。

そんな状況の中、元和2年(1616)4月17日に家康が没し、秀忠が主導権を握りました。

秀忠にとって忠輝は腹違いとはいえ、弟です。しかし、秀忠は肉親の情に流されることはありませんでした。

家康が没して二ヶ月後の7月6日、秀忠は忠輝を改易処分とし、伊勢の朝熊(あさま。三重県伊勢市朝熊町)に流しました。

「徳川にそむくものは、たとえ身内であっても容赦しない」

その方針を、秀忠は弟を処分することによって、世間に示したのでした。

松平忠直の改易

もう一人、秀忠は身内を処罰しています。

元和9年(1623)2月22日、秀忠は越前福井六十七万石藩主・松平忠直に改易を言い渡し、豊後萩原(大分市)に配流しました。

松平忠直は、秀忠の兄秀康の息子です。兄秀康は幼い頃から家康に実の子でないと疑われ、不遇な時代を過ごしました。まず秀吉の養子に出され、ついで下総結城の結城晴朝の又養子となり、結城秀康と名乗りました。

松平忠直
松平忠直

松平忠直は、その結城秀康の息子です。秀忠にとっては甥に当たります。関ヶ原の時は宇都宮を守り、会津の上杉景勝を権勢。東軍が勝利する一因を作りました。この功績により、越前福井六十七万石を得ます。

大阪夏の陣での活躍がもっとも華々しいものでした。真田幸村隊と戦い、大将幸村以下3753人の首を挙げました。家康は、初孫の手柄に涙を流して喜んだと伝えられます。

改易の理由は諸説あってわかりません。暴君であった。家臣を斬り殺したため改易した、という説もありますが、作り話の可能性が高いです。

ようするに潜在的な競争相手を排除したものでしょう。なにしろ秀忠は三男。もともと長男の信康か、次男の秀康が跡を継いでいてもおかしくなかったわけですから。

福島正則の改易

秀忠は大名に対しても容赦ありませんでした。たとえば福島正則です。

福島正則といえば関ヶ原の合戦の前、小山評定でまっさきに家康に着くことを宣言し、諸大名が我も我もと家康に従う空気を作った人です。もっともこれは作り話の可能性が高いですが。

そして関ヶ原の合戦では先駆けをして大いに戦働きがありました。大阪の陣でも、豊臣恩顧の大名でありながら、迷うことなく家康につきました。まことに徳川幕府草創期の忠臣といえるのが福島正則です。

そのため家康も、福島正則を篤く遇しました。それまでの尾張清洲24万石から安芸・備後あわせて49万8000石へ所領を倍増した上で転封させました。

家康の生きていた頃は、福島正則はまったく安泰でした。

しかし…家康の跡を継いだ秀忠には、家康が福島正則に対して抱いていたような義理人情は、どうでもいいことでした。

それよりも、将来の争いの種をあらかじめ摘み取ることのほうが、大事でした。

元和5年(1619)秀忠は、福島正則が広島城の石垣を幕府に無断で修復したのは武家諸法度に違反していると言って訴えます。

福島正則側の記録によれば、城の修復はちゃんと本多正純に報告されていたということです。本多正純が忘れていたのか、それとも握りつぶしたのか、それはわかりませんが。

結局、福島正則は改易減封となります。信濃の川中島二万石・越後魚沼二万五千石。あわせて四万5千石に減封改易されました。

福島正則は川中島高井野村に6年間をわびしく過ごし、寛永元年(1624)亡くなりました。享年64。長野県上高井郡小布施町(おぶせまち)の岩松院(がんしょういん)に福島正則の霊廟があります。

さらに幕府は福島家に追撃をかけました。幕府の検視を待たずに遺体を荼毘に付したということで、4万5000石は没収。正則の跡取りには3000石のみを残しました。

たとえ幕府草創期の忠臣であっても、秀忠は一切、躊躇しないのでした。潰す時は潰す。俺は甘くないぞと、秀忠は福島正則の改易をもって、世に示したのでした。

西国大名への監視強化

また秀忠は西国大名への監視を強化しました。

大阪夏の陣で豊臣氏が滅亡した時、大阪城は焼失しましたが、戦後、徳川の大阪城が新たに築かれました。しかし西国大名が大阪城をおさめるでは勝手なことを始めるかもしれない。

そこで秀忠は大阪を幕府直轄領として、大阪城に将軍の名代たる「大阪城代」を置きました。

家康の時代は、秀忠の権力は主に東国にしか及んでいませんでしたが、それを西国にも及ぼそうと考えてのことでもありました。

解説:左大臣光永