二代秀忠(四)家康・秀忠 二頭政治時代

家康、征夷大将軍となる

慶長8年(1603)正月21日、家康は伏見城において後陽成天皇の勅使より征夷大将軍に任ずるという内示を受けます。2月12日、同じく伏見城で家康を征夷大将軍にするという宣旨が下されます。

3月21日、家康は伏見城を出て、かねてから建造中の二条城に入ります。秀吉が築いた聚楽第にならい、京都における将軍政庁として築いたものでした。

3月27日、家康は二条城で後陽成天皇の勅使より正式に征夷大将軍の宣下を受けます。

時に家康62歳。江戸幕府の始まりです。

この前年、薩摩の島津氏も上洛して家康に膝を屈していました。もはや日本中に家康に敵対しうる勢力はいなくなりました。大阪城の豊臣氏を除いては。

千姫を嫁がせる・豊国祭

同じき慶長8年(1603)7月、家康は孫娘の千姫を、豊臣秀頼に嫁がせます。これは亡き秀吉の遺言でもありました。

また家康の立場から言うと、豊臣方への懐柔策でもありました。征夷大将軍を受けた直後であり、野心があるのでは?豊臣を乗っ取る気ではと、豊臣方から疑われかねない。そこで、孫娘の千姫を秀頼に嫁がせることによって、私は豊臣に敵意など持っていませんよと示したのです。

また家康は同じ時期に豊臣秀吉の七回忌として豊国祭を行い、世間に徳川家と豊臣家の結びつきを強調しました。

江戸を守る秀忠

家康が征夷大将軍を宣下され、上方で対豊臣の工作を行っているころ、秀忠は江戸にあって江戸城と江戸の町の建造を進めていました。諸大名も、江戸に屋敷を構える者が増えていました。

いずれ江戸は世の中心になる。天皇のいる京都でも豊臣のいる大阪でもなく、将軍のいる江戸こそが、中心となっていくのだ。多くの人が肌でそう感じていました。

家康から秀忠への権力の移譲も、この頃からじょじょに行われていったようです。公式文書に秀忠の名前が書かれることが多くなっていきます。

秀忠に征夷大将軍を譲り、大御所となる

慶長10年(1605)正月9日、江戸城にいた家康は思うところあって京都めざして東海道を西上します。家康に従う兵力はわずかでしたが、2月24日、家康に続き出発した秀忠は10万の軍勢を従えていました。

ついに大阪方と戦になるのか!

緊張感がみなぎります。

しかし上洛の目的は、戦ではありませんでした。

慶長10年(1605)3月21日、家康は伏見城に入ります。4月7日、家康は征夷大将軍を息子の秀忠に譲りたい旨を朝廷に、奏上します。

秀忠の征夷大将軍宣下は4月16日、二条城で行われました。

その後、秀忠は皇居で後陽成天皇に拝謁しお礼を奏上しました。その間、全国から諸大名が集まり新将軍秀忠に忠誠を誓いました。大阪城には豊臣秀頼がいるのに、誰一人秀頼のもとには伺いませんでした。

家康がわずか2年で将軍職を譲ったのは、なぜか?それは徳川家による将軍職世襲というシステムを早めに作り上げるためです。諸大名はたしかに家康に従っていました。しかしそれが家康個人へ従うのではまずい。家康の死後も、徳川家が代々将軍の位につく。それを諸大名に早めに認めさせたかったのです。

家康は将軍職を秀忠に譲った後、しばらくは江戸城に留まっていましたが、慶長11年3月、駿府城に移り、ここを隠居場所と定めます。以後、ときどき江戸に来ることはあっても駿府城を家康は居城としました。そして大御所として、亡くなるまで権力の座にあり続けます。

家康、秀忠に教訓す

ことに二代将軍となった秀忠への教育は、大御所となってからもやむことがありませんでした。

こんなエピソードが伝わっています。

秀忠が、太田某という侍を召し抱えた。その時、五百石で召し抱えるということが記された紙を渡すと、太田某はその場で紙を叩きつけて、帰ってしまった。

「無礼な!打ち首にせよ!」

激怒する秀忠。しかし家臣の井上正就(いのうえ まさなり)が秀忠をなだめ、とにかく大御所さまのご意見をうかがいましょうということになる。そこで家康に意見を求め、帰ってきた答えは、

「太田は確かに無礼だ。しかし賞罰が適切でなければ下が恨むのは世の常。太田は無礼を承知の上で諌めたのだろう。わが身を捨てて諌めたのだ。いさめるというのは容易なことではないぞ。主君の怒りを買って罰せられ、家を亡ぼすこともあるのだから」

そこで家康は井上正就に命じて、太田某に三千石を与えたという話です(『常山紀談』)。

このように秀忠は将軍になってからも家康に教えられる場面が多々あったようです。

大阪の陣

しかし大阪城にいる淀殿・秀頼に、家康は強い危機感を抱いていました。天正19年(1614)方広寺の釣鐘の文字に問題がある。徳川を呪っているいって、豊臣方に難癖をつけてきます。方広寺鐘銘事件です。

こうして家康は豊臣討伐に乗り出します。

天正19年(1614)10月、大阪冬の陣です。家康は久々の戦に「若やいで」見えたと記録されます。

秀忠が関ヶ原の雪辱をはらすとばかりに駿府に使者を送ってきました。

「私が大阪城を攻めますから父上は駿府で帷幕の奥深くいらしてください」

しかし家康の答えは、

「わしが先に進むからお前は後からついてこい」

こうして家康みずから陣頭に立って、大阪城への進撃が始まります。

秀忠は関ヶ原で真田の上田城を攻めるのに手こずり、天下分け目の決戦に間に合わず、家康の怒りを買いました。そのことが秀忠にはよほどトラウマになっていたようです。今回は急ぎすぎるくらい急ぎました。

そこで家康は秀忠のもとに使いを立てて、「何万という大軍が動いているのだ。もっとゆっくり進め」と助言したほどです。

家康は大阪城を攻撃する一方、大阪方との講和を進めていました。これに秀忠は不満をたぎられせます。

「講和などありえない話です。一斉攻撃でケリをつけましょう」

しかし家康は考えがあり、秀忠の意見を退けました。

結局、豊臣方が折れ、豊臣方が屈辱的な講和条件を受け入れる形で大阪冬の陣は終わりました。

しかし家康は豊臣方を許さず。翌天正20年(1615)、豊臣方が浪人を集め武器を蓄えていることを口実に、再度大阪城に攻め込みます。大阪夏の陣です。

前の冬の陣の講和により大阪城は掘を埋められており、抵抗しようもありませんでした。大阪城は焼け落ち、淀殿・秀頼は自害しました。ここに豊臣は滅びました。

解説:左大臣光永