二代秀忠(三)関ヶ原の失態

秀吉の死から関ヶ原へ

その間、天下の情勢は目まぐるしく動いていました。慶長3年(1597)8月18日、天下人秀吉が亡くなります。

秀吉の死後、家康は露骨に天下取りに乗り出します。

秀吉生前から大名同士の縁組は法度により禁じられていましたが、家康は公然と法度を破り、伊達政宗の長女と自らの六男・松平忠輝を婚姻させたのを始めとして、福島正則・黒田長政とも姻戚関係を結ぼうとしました。

一方、元豊臣家臣団も一枚岩ではありませんでした。

石田三成らの文治派と、加藤清正・福島正則らの武断派が対立を深めていました。特に朝鮮遠征における査定に対する不満から、両者は関係を悪化していました。

慶長4年(1598)閏3月3日、前田利家が死ぬと、石田三成らの文治派と、加藤清正・福島正則らの武断派の間の調整弁がなくなります。翌3月4日には事件が起こりました。

武断派の七将(加藤清正(かとう きよまさ)、福島正則(ふくしま まさのり)、細川忠興(ほそかわ ただおき)、浅野幸長(あさの よしなが)、黒田長政(くろだ ながまさ)、蜂須賀家政(はちすか いえまさ)、藤堂高虎(とうどう たかとら))が、石田三成の大坂屋敷を襲撃しました。

この時は徳川家康の仲介で七将はなんとか矛を収めました。石田三成は佐和山城(滋賀県彦根)に隠居となりました。

その後も徳川家康は権威を高めていきました。

慶長4年(1599)8月14日、後陽成天皇に拝謁します。朝廷は家康を豊臣秀頼と同等の、まったくの天下人として扱いました。

また家康は、前田利長・細川忠興らに謀反の疑いがあると難癖をつけます。前田利長・細川忠興は仰天して、すぐに家康に誓って謀反などとんでもないと、起請文を出しました。

こうしたことも、家康の権力地盤を引き上げていきました。

家康は大阪城の二の丸に居座り、政治の舵を取り続けます。

会津挙兵

慶長5年(1600)5月。

徳川家康は、豊臣五大老の一人・上杉景勝が領内で城郭を整備し、橋を作り、兵糧・武器を蓄えているのは謀反を企てているのだとしました。

「上杉景勝はすぐさま上洛し、弁明せよ」

そう言って家康は要求しましたが、上杉景勝は家康の要求をキッパリ断りました。

家康は激怒し、上杉討伐の軍をおこします。

6月16日。

福島正則・黒田長政・細川忠興ら55800の軍勢が大阪城を出発。7月。江戸入り。

7月19日、嫡男の秀忠が、21日、家康自身が江戸を発って会津に向かいます。

三成挙兵

徳川家康が会津に向かっているのを見て、近畿で石田三成がこれ幸いと兵を挙げます。しかし、それこそ家康が狙っていたものでした。

「ついに動いたか…」

家康は江戸を出て会津へ向かう途中の下野小山(しもつけおやま。栃木県小山市)にいました。三成挙兵の知らせを受けると7月26日、諸将の軍勢を西に向かわせ、8月5日、自身が江戸城に帰還しました。

上田城の戦い

慶長5年(1600)8月24日、徳川秀忠は父家康の命により3万8000を率いて宇都宮を出発。中山道を西へ進みます。時に秀忠22歳。若すぎる心配もあってか、家康は秀忠に目付役として本多正信を、また徳川四天王の一人・榊原康政をつけていました。

一方、信濃上田城に拠点を置く真田一族は、昌幸と昌幸の子信之、信繁(通称幸村)が会津攻めに加わるために小山の近くの犬伏(いぬぶし)まで来ていましたが、そこへ石田三成挙兵の知らせが届きます。

どうするか?家康の東軍につくのか。三成の西軍につくのか。そこで父昌幸と幸村は三成の西軍に、信之は東軍につくことしました。信之は秀忠の軍に加わり、昌幸と幸村は三成に味方するため大阪に向かいました。

犬伏(いぬぶし)の別れです。

秀忠は考えました。西国に向かう途中、真田の立てこもる上田城を落とせないか?そうすれば父家康への何よりの手土産になる。さいわい、当方には真田信之が味方している。

「真田信之、おまえの父と弟を説得してくれ」

「やってみましょう」

秀忠の命により真田信之が上田城に交渉に向かいます。すると、昌幸はアッサリ交渉に応じました。頭を丸めて、どうか助けてくれと泣きついてきました。これはうまくいきそうだ。喜ぶ秀忠。ところが、交渉が始まってみると、昌幸はガラリと態度を変えます。へーえ、降伏?そりゃまあ条件しだいですなあ、などど、ノラリクラリ話をはぐらかします。

その挙句、三日目に昌幸から返ってきた答えは、「籠城の準備が整いましたので、いざ合戦しましょう」というナメきったものでした。

要するに、秀忠が西国に到着するのを少しでも遅らせようという、時間稼ぎでした。秀忠は3日間を無駄に浪費させられたのでした。

「ぐぬぬ…真田昌幸。ナメたマネを!」

真田昌幸の挑発を無視するには、この時の秀忠は若すぎました。本多正信が止めるのもきかず、秀忠は上田城攻めを敢行します。

上田城攻めは慶長5年(1600)9月5日から始まりました。初日の戦いは、上田城の北の支城・戸石城を攻めました。

しかも降参してきたばかりの真田信之に攻撃を命じました。お前の忠誠心を見せてみろというわけです。戸田城を守るのは弟の真田幸村。

「兄上もお苦しい立場なのだ…」

幸村は兄信之の徳川方における立場をおもんぱかり、戦わずして戸石城を明け渡し、上田城に移りました。

「すまぬ、弟よ…」

信之は弟の気遣いに感謝しながら、戸石城に入りました。

ちなみに戸石城はかつて武田信玄が村上義清に惨敗した場所です。

6日から、秀忠軍は上田城を本格的に攻めます。折しも収穫の季節で、城外には稲穂がたわわに実っていました。秀忠軍はそこに押し寄せ、稲穂を刈り荒らします。しかも上田城から見える場所で。

こうすれば激怒して出て来るだろうという作戦です。

事実、上田城から真田方の城兵が出てきました。合戦となります。しかし秀忠軍は総勢3万8000。数の勢いに真田方は押され、上田城内部へ撤退していきます。

「それっ、敵はひるんでいるぞ。こままま上田城に突っ込め!」

わーーっと攻めていった時、

パーーン、タタン、ターーン

城内から射撃され、秀忠軍は足止めを喰らいました。

「ぐぬぬ…たかが小城と思うておったが、ことのほかしぶとい」

たしかに上田城は小城でした。秀忠軍は数で包囲すれば余裕で落とせると考えていました。しかし…2日経っても城は落とせませんでした。

そこで家臣の戸田左門が秀忠に申し上げました。

「上田城ごとき小城にこだわるはのは無意味。上方の敵こそ本命です。
石田三成さえ倒せば、真田ごときは勝手に崩れましょう。
内府(家康)はすでに上方に向かっておられます。ならば、
すみやかに上田城の囲みを解いて、我らも合流すべきでしょう」

「わかった…」

関ヶ原に間に合わず

慶長5年(1600)9月8日、秀忠はついに上田城の包囲を解きます。上田城からの追撃が心配されるので押さえの兵を配置した上で、ふたたび中山道に立ち返ります。

しかし中山道を進むといっても、スムーズにはいきませんでした。

上田城からの追撃を心配して、道の悪い古道を進んだこと、雨で木曽川が増水していたことによって時間がかかってしまいます。

9月17日、秀忠軍は妻籠宿(つまごじゅく)に到着します。

そこで秀忠は、去る9月15日、関ヶ原で石田三成を滅ぼしたという報告を受けました。

「なっ…」

絶句する秀忠。天下分け目の合戦に、間に合わなかったのでした。父からどんな叱責を受けるか…秀忠は重い気持ちで、中山道をさらに西へ進みました。

父に面会かなわず

9月15日、関ヶ原に勝利した家康は、翌16日から三成の居城である佐和山城を攻めて翌17日には落とし、9月19日、草津に。20日大津に入りました。そこへ、ようやく秀忠が追いつきました。

秀忠は一刻も早く父家康に戦勝祝を述べて、遅参した言い訳をしたいと考えたでしょう。しかし家康の答えは、

「気分がすぐれない」

というもので、面会を許されませんでした。そして家康はこうつぶやいたとも言われています。

「もし信康が生きていれば、こんなことにはならなかったのに…」

結局、家康の怒りは解けたのですが、その様子は『東照宮実紀』によると、

「大事の合戦に間に合わず、面目もございません」

「参陣の期日を伝えた者の手違いもあろう。気に病むことではない」

そう言って家康は秀忠を許した後、

「お前の配下に、上田城を落とさずとも三成を倒せば真田は自然に降伏してくると考えたものはなかったのか」

「戸田左門という者が申しました」

「ではその戸田左門を呼べ」

こうして家康は戸田左門を召し出すと、褒美を取らせた…ということです。

解説:左大臣光永