新井白石(六)家宣から家継へ

家宣から家継へ

正徳2年(1712)江戸でインフルエンザが猛威をふるいます。将軍家宣も羅漢しました。

病の床についた将軍家宣は、枕元に新井白石を呼びました。

「ほかでも無い。跡取りのことだ」

直系の候補者としては四男の鍋松がいました。正妻の子ではありませんが、正妻の産んだ嫡男はじめ、上の三人は幼くして早世していました。

しかし…四男鍋松はいまだ3歳と2ヶ月。幼すぎるのが気がかりでした。

そこで家宣は白石に二つの案を出します。

一つ、尾張徳川家の吉通を将軍として迎える。

一つ、鍋松を将軍として立てた上で、尾張徳川家の吉通を西の丸に入れて後見させる。

「どちらもよろしくありません」

白石は言うのでした。正式な御世継ぎとしての鍋松さまがいらっしゃるのに尾張徳川家を立てれば、後々争いの元になる。それにたとえ幼君であっても側近や御三家が盛り立てれば大丈夫ですと。

「しかし…鍋松に万一のことがあったら」

「その時のために、神君(家康公)は御三家を立てられました」

「わかった」

正徳2年(1712)10月14日、家宣は帰らぬ人となります。享年51。墓は増上寺にあります。

新井白石にとって徳川家宣は、甲府宰相時代から将来の仁君としての教育をほどこしてきた人物です。また家宣も心から白石を尊敬し、真剣に白石の講義にのぞみました。将軍就任後も家宣はつねに白石の意見を求め、重んじました。

家宣と白石の関係は、まさに水魚の交わりともいうべき、君臣の理想的な形だったといえます。その家宣が治世わずか3年で亡くなり…白石の胸の内はどんなだったでしょうか。

七代将軍 家継

七代将軍となった徳川家継は、六代将軍家宣の四男して生まれます。母は側室のお喜世の方(月光院)。名鍋松。四男なので普通は将軍職を継げないところですが、正妻の産んだ嫡男はじめ三人の兄が早世したことにより将軍職を継ぐこととなりました。

六代家宣没後の正徳2年(1712)12月18日、諸大名から将軍継承の賀を受けるため江戸城表御殿に上がります。側用人間部詮房に抱かれ、数人の奥女中を伴っていました。直後の12月23日、霊元法皇より「家継」の名が与えられます。

翌正徳3年(1713)3月26日元服。4月2日。征夷大将軍の宣下を受けました。七代将軍徳川家継の誕生です。わずか4歳でした。

4歳で政治はできないので、側用人の間部詮房と儒者の新井白石が家継政権を支えます。家継は特に間部詮房のことを実の父のように慕っていました。

家継はまだ幼いので、大奥にいる母・月光院のもとで起居していました。そこで取次役の間部詮房はたびたび大奥に出入りしました。ふつう大奥には男子の出入りを禁じられていますが、間部詮房は特例として許されました。

こうしたことが噂を招きました。間部詮房は月光院と密通していると。真偽のほどはわかりませんが…間部詮房と月光院と幼い将軍家継が仲良くこたつに入って温まっているような、微笑ましい場面もありました。それが悪意に解釈された結果、密通の噂となったのでしょうか。

婚約ならず

正徳5年(1715)家継7歳の時、霊元法皇の皇女・八十宮吉子(やそのみやよしこ)内親王との婚約が整いました。幕府と朝廷の結びつきが、これでいよいよ強められる!世間の期待が高まります。結納も交わされましたが、結局この結婚は成立しませんでした。

解説:左大臣光永