新井白石(四)正徳の治

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正徳の治

新井白石は将軍家宣・家継の二代にわたって、儒教にもとづく「仁」の政治を行いました。白石の政治は「正徳の治」として後世に讃えられています。具体的には何をやったか?白石がもっとも力を入れた二本の柱があります。

貨幣政策。そして朝鮮通信使への待遇簡素化です。

貨幣政策(金銀改良事業)

五代将軍綱吉の時代、財政難を解決するために手っ取り早い方法が取られました。側用人柳沢吉保、勘定奉行荻原重秀のもと、貨幣の質を落としたのです。結果、インフレを招き、幕府への信用が落ちました。柳沢吉保は六代将軍家宣の代になってすぐに隠居しましたが、勘定奉行荻原重秀は幕閣に居座り続けていました。

新井白石の荻原重秀に対する態度は厳しいものでした。どうあっても、荻原重秀を追い出さなくては、経済をまともにすることはできないという考えです。

荻原は天下に害をなす奸物です。止めさせなければ、いけませんと!

将軍家宣は貨幣の改悪によるインフレなどは重々承知しながらも、それでも当面の経済危機を救ったのは荻原だし、ズバリ辞めろとも言い出しづらくいました。しかし白石は本気でした。三度にわたって将軍家宣に萩原の弾劾を訴えます。

「荻原は共に天を戴かざる仇敵です」

「それがし、年は取り細腕ではありますが、人一人刺し殺すくらいなら、造作もなきことですぞ」

白石の激しい言葉に、さしもの家宣も心動かされました。

「わかった…白石がそこまで言うなら」

ついに家宣も折れました。正徳2年(1712)9月11日、萩原は勘定奉行を罷免されます。

「おのれ白石め…!!」

荻原重秀はよほど腹を立てたと見え、断食の末、9月25日に死んでしまいました。

その後、六代将軍家宣も亡くなり、白石の貨幣改革は新将軍・七代家継のもと実行に移されました。混じり物の無い、純粋な金貨・銀貨。江戸時代はじめの慶長の頃使われていた「慶長小判」に戻し「正徳小判」と言われます。次の八代吉宗の代にも引き続き使われましたので「正徳・享保小判」とも言われます。

裁判の公正化

また裁判の公平化をはかりました。「たとえ極悪犯人でも、十に一もゆるすべき事情がないかと考え、少しでも罪を軽くすることこそ政の道である」とは、裁判のみならず白石の政治方針を示す言葉といえるでしょう。

朝鮮通信使の待遇簡素化

朝鮮通信使は将軍の代替わりごとに対馬から江戸城にやってきました。使節は300-400人ものぼり、接待に多額の金がかかりました。大名にも一般国民にも負担でした。

そもそも朝鮮通信使は家康の時代に始まり、当時はまだ徳川幕府の権威が確立していなかったために、徳川幕府はすごいんだぞ。外国からも、徳川をしたって使節がやってくるんだぞ、どうだ!というデモンストレーションの意味がありました。

しかし六代家宣の時代はすっかり幕藩体制は安定しています。いまさら徳川に背いてくる大名もありません。朝鮮通信使の費用対効果は低くなっていました。

そこで白石は、朝鮮通信使への接待を簡素化します。対馬から江戸の道中も、江戸城での接待も簡単なものにしました。結果、一組の朝鮮通信使に対する費用が100万両から60万両に削減されました。

しかし、ただ予算を削っただけではありません。別の面では使節団に対して以前にも増して丁重な扱いをしました。

江戸城で朝鮮国王への返書を渡すときに将軍自らが手渡すようにしたこと。江戸城で舞楽を上演して、使節団を楽しませたこと。これらは大して予算もかからない上に、使節団を大いに満足させるものでした。

金を使うだけが接待ではないという教訓ですね。

当の朝鮮通信使はこの待遇変更に対してどう思ったかというと…おおむね満足でした。結果、新井白石の名声は朝鮮にまで及びます。たいした男がいる。すぐれた詩人であり学者である。その名を白石という…と。

「日本国王」の号を使う。

また、中国(清)と朝鮮とやり取りする国書の中で徳川将軍のことを「日本国大君」と書いていました。白石の提案によりこれを改め、「日本国王」と改めました。白石の考えでは、「大君」は中国では天子をさすので、不遜である。朝鮮では王子の嫡子をさすので、臣下の称号である。よって朝鮮から舐められる。いずれにしても「日本国大君」はそぐわないとして、日本国王を使うことを白石は提案しました。

こうして正徳元年(1711)六代将軍家宣が就任する際の朝鮮通信使では、「日本国王」の号が使われました。しかし8年後の八代吉宗の時の朝鮮通信使では、ふたたび「大君」に戻りました。白石の提案が通ったのはわずか二代、8年間に過ぎませんでした。

海舶互市新例

白石の業績としてもうひとつ欠かせないのが、貿易に関することです。

三代家光の時に鎖国が完成して以来、日本は中国・オランダとのみ貿易を続けていきました。もっともオランダ人はシャム人を連れていたので実際には三か国と貿易をしていたとも言えます。

貿易額は年々増えていき、金銀が大量に海外に流出しました。幕府はこれではマズいと貿易額に制限を加えます。元禄元年(1688)には中国人を長崎の唐人屋敷に押し込めました。

しかし、こうした制限はかえって密貿易が増える結果となり、またも金銀が海外に流出しました。キリがありませんでした。

六代将軍家宣の時代には、長崎貿易はさらに大きく成っており、それに比べて長崎市民の生活は苦しく追い詰められていました。そこで家宣は新井白石を召し出して、

「長崎貿易はいったいどうなっているのだ」
「まずは現状の把握が大切です」

そこで白石は長崎奉行大岡清相(おおおか きよすけ)に命じて貿易の詳細な調査をさせたところ…驚くべき現実が見えてきました。

「幕府の創業以来、金の四分の一が、銀の四分の三が。銅は22億3000万斤が流出しておりますこのままでは、あと100年もたたぬうちに国内に金も銀もなくなってしまいます」

「なんという…!だがどうすればよいのか」

「大規模な貿易制限。これしかございません」

しかし、程なくして将軍家宣は亡くなり、白石の意見が実現にこぎついたのは七代将軍家継の時代に入ってからでした。

正徳5年(1715)正月に出された、海舶互市新例(かいはくごししんれい)です。

貿易を細かく制限したものです。船の数、大きさ、取引額など事細かに定めてありました。金銀の海外流出をふせぐこと、そして密貿易を取り締まることが目的でした。

解説:左大臣光永

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