新井白石(三)閑院宮家の創設

閑院宮家の創設

新井白石が徳川家宣下で行った政策について、重要なものを述べていきます。

朝廷関係では閑院宮家の創設があります。

徳川幕府はわずか5代の間に、2度も嫡流が絶えました。四代将軍家綱には世継ぎがなく、五代将軍綱吉の世継ぎは幼くして死にました。よくよく憂慮すべき事態でした。

一方、天皇家にも、たびたび皇統断絶の危機が起こっていました。

中世以来、皇太子以外の皇子皇女は出家するならわしでした。だからいざ皇太子が早世したりすると、皇統断絶の危機が起こりました。

かといって皇太子以外が法親王になるのは長い間に培われてきた習慣です。習慣にやかましい朝廷が、簡単に変わるはずもありませんでした。

このような状況をかんがみ、新井白石は将軍家宣に進言します。

「将軍家が栄え、朝家も栄えるのが一番よいことです。朝家が危機に陥っているのに、将軍家だけが栄えることを望んでよいものでしょうか。皇子皇女が増えれば出費がかさむというご意見もございましょうが。しかし金は何とかなる。大切なのは同理です」

家宣は白石の意見を容れました。

宝永7年(1710)8月、東山天皇の第6(第7とも)皇子・秀宮(ひでのみや)を直仁(なおひと)親王としてあたらしい宮家が創設されます。閑院宮家です。

閑院宮家の創設
閑院宮家の創設

それ以前の伏見宮・桂宮・有栖川宮家とあわせて、四親王家(ししんのうけ)といいます。

閑院宮家の屋敷は今の京都御苑の南西部。烏丸通と丸太町通が交差する位置にL字型の御殿を与えられました。現在、「閑院宮邸跡」として整備され一般公開されています。

閑院宮邸跡
閑院宮邸跡

閑院宮邸跡
閑院宮邸跡

閑院宮邸跡
閑院宮邸跡

閑院宮家の創設は、おそらく当時はほとんど注目されない事件だったでしょう。しかし70年後、新井白石の慧眼が証明されることとなります。

安永8年(1779)後桃園天皇が跡取りがないまま22歳で亡くなったのです。恐れていた皇統の断絶は起こりました。そこで、閑院宮家初代・直仁親王の孫にあたる兼仁親王を後桃園天皇の猶子(養子につぐもの)として迎えました

閑院宮家 光格天皇
閑院宮家 光格天皇

この兼仁親王が、光格天皇として即位することで皇統が保たれました。そして光格天皇以降、閑院宮家直系の天皇が代々即位し、平成の今日まで続いています。

ちなみに光格天皇といえば、最近ニュースで耳にされた方も多いのではないでしょうか?

今上陛下の「生前退位」について、今上陛下以前に「譲位」を行った最後の天皇ということで、光格天皇の名が出てくることが多くなってます。 文化14年(1817)光格天皇が譲位して第六皇子の仁孝天皇が即位した。これが平成30年2月現在、日本最後の「譲位」です。

一方、天皇にならなかったほうの閑院宮家はその後も続いていきますが、昭和22年(1947)七代春仁(はるひと)王が皇室を離脱し純仁(すみひと)と改名。昭和63年(1988)跡取りが無いままに亡くなったことにより、閑院宮家は断絶しました。

解説:左大臣光永