新井白石(一)二度の浪人時代

幼少期の新井白石

新井白石は明暦3年(1657)2月10日、上総久留里(くるり)藩士新井正済(まさなり)の子として生まれます。

白石の父正済は、上総久留里二万石の城主・土屋利直(つちや としなお)に仕えました。新井氏は清和源氏の新田義貞の傍流を自称していましたが、真偽のほどはあやしいです。しかし白石は生涯、自分を新田義貞の系統、清和源氏の末流と強く意識していました。自分は武士なのだ。それも清和源氏だ。これは白石の生涯をつらぬくアンデンティティーとなりました。

元禄11年(1698)白石の家が火事で焼けたことがありました。その時、主君徳川家宣は家を再建するため、50両を白石に与えました。ところが白石は、その50両で鎧を一両、こしらえました。

いざという時に主君のために死を賭して戦うため、ということでした。いざ合戦となれば主君のために命を惜しまず戦うという覚悟です。白石はこのように戦国時代の武士の気概を生涯にわたって持っていました。

たしかに白石は清和源氏であったのです。

母千代は藤原氏の出身で、書道にも歌道にも優れた女性でした。『古今和歌集』以下の勅撰和歌集や、『伊勢物語』や『源氏物語』の講義を白石と姉たちに授けたといいます。また琴をかなでるほどの女性でした。幼い頃の母から受けた文学的素養は、その後の白石を支える土台となりました。

新井白石が生まれたのは明暦3年(1657)2月10日。明暦の大火の直後です。そのため白石の父の主君・土屋利直は白石のことを「火の児」と呼びました。眉間に「火」の字のキズがあったともいいます。白石の激しい気性も、幼い頃からの自分は火の児であるとの自覚から培われていったことでしょうか。

白石は幼いころから聡明な少年でした。4-5歳の時『太平記』の講義を大人にまじってきき、6歳で漢詩を暗誦し、人に内容を解説しました。

寛文4年(1664)8歳から父の命により一日に四千文字を書きます。これは単に字を憶えるだけでなく精神修養の意味がありました。10歳で『庭訓往来』を習い、13歳で藩主の手紙を代筆するまでになります。そのかたわら、母千代からは『伊勢物語』や『源氏物語』を教わります。お硬い学問と、豊かな情操の部分を、父と母から白石は受けて成長していきます。

武芸にも熱心でした。年上の対戦相手と三度立ちあい三度勝ったので、周囲はワアッと囃し立てました。なんだ剣術って気持いいなと味をしめて、以後熱心に稽古に励みました。

また若き日の白石にとって、儒学との出会いが大きなことでした。父の主君である土屋利直の屋敷で四書五経の講義を受け、中江藤樹の『翁問答』との出会いがありました。白石は早くからこのような儒学書に興味をもったようです。

浪人時代

主君・土屋利直のもと、白石は書物も手に入りやすく講義も受けることができ、自由に勉強をすることができました。父母に愛され、また主君夫婦からも寵愛を受け、若き日の白石はのびのびと育っていきました。しかし延宝3年(1675)土屋利直が死ぬと事態が一変します。正済・白石父子は苦しい立場に立たされることとなります。

そもそも土屋利直の父忠直は武田勝頼の元家臣でありながら家康に見出され、家光の従者にされ、関ヶ原の後、上総久留里藩2万石の城主に取り立てられたほどの人物です。その子利直も聡明な人物でした。

しかし利直の死後、土屋家ではお家騒動が起こります。利直の息子頼直を当主に立てるべきという意見と、それに対する反対派が対立しました。この時、白石の父正済は、頼直を擁立するために反対派の説得にあたろうとしました。しかし、その動きを当の頼直に疑われます。

「あいつ、反対派と通じているのだろう。けしからん」

こうして正済・白石父子は土屋家を追放され浪人となりました。時に正済75歳白石21歳。

浪人生活は辛く、心細いものでした。

父正済は陸奥の地方官を務める人物を養子としていたため、そこから仕送りを受けることができましたが、それにしても貧乏でした。両親は共に浅草田原町の報恩寺の塔頭・高徳院で出家同然の暮らし。白石はその近所に住んでいたようです。苦しい浪人生活の合間にも白石は学問に励み、各地に講義を聞きに行きますが、不幸は重なります。妹が難産で死に、ついで母が死にました。

父正済と白石と、身内ただ二人ということになってしまいました。

「わが行く末の事ども、いかにとも思ひ分かたず」

とはこの頃の白石の述懐です。

浪人中、白石はどうやって生活費を得ていたのか。わかりません。とにかく生活は苦しかったです。見かねた周囲が婿養子に入ることを勧めたり、医者になれと言ったりしました。東廻り・西廻り航路の開発で有名な河村瑞賢は孫娘との結婚をすすめました。しかし白石の中には「武士」というこだわりがありました。私は父と同じく、誇り高い武士なのだ。たとえ今は食えなくても、天下国家のために働くのだと…。

しかも、当時の「浪人」は今で考えられないほど悲惨な立場でした。奉公構えといって、再任官することが認められていないのです。じゃあどうしろって話ですが、仕送りに頼ったり、ほそぼそと内職してたんでしょうか…。

大老堀田正俊に仕える

そんな白石父子にも運が向いてきました。延宝7年(1679)土屋家が改易になったことにより奉公構えが解けて、再就職の道がひらけたのです。三年後の天和2年(1682)大老堀田正俊に仕えるようになります。時に白石26歳。待遇については五百石説、ニ・三百説もあり、不明です。

「父上、ようやく就職できました。これからですよ」
「ああ、おお、ワシはホッとしたよ」

父正済は息子白石の就職によほど安心して、今までの苦労がドッと出たのでしょうか。白石の就職から2ケ月後に亡くなりました。白石としては父が死ぬ前に安心させてやれたのは、せめてもの孝行ができた思いだったでしょうか。

堀田正俊、殺害される

ところが、またも運命は一転します。

貞享元年(1684)8月26日の朝、白石の主君・掘田正俊は、江戸城本丸にて若年寄稲葉正保(いなば まさやす)により暗殺されてしまいます。どういう理由かわかりませんが、治水工事について稲葉は不正を行っており、それがバレそうになったので犯行に及んだという説が有力です。

主君掘田正俊の死によって、白石も苦しい立場に立たされます。掘田家の家臣たちは多くが家を去っていきました。しかし白石は掘田家に仕え続けました。白石は武士なのです。武士がそうコロコロ主君を変えるべきではないという信念がありました。

生活は苦しいものでした。妻子をかろうじて養える程度の収入でした。それでも白石は合間を見て学問し、経学・史学を学びました。

特にこの頃「貧は士の常」という『列氏』の言葉が引用されています。白石はこの言葉を自分に言い聞かせ、励ましていたのでしょう。孔子もなかなか任官できずに不遇な時代があったのだ。しかしあんなにも大きな仕事を残している。俺もいつかは…そんなふうに考えたでしょうか。

木下順庵の門人となる

貞享三年(1686)30歳の白石は儒学者・木下順庵の門人となります。木下順庵は博学な人物でした。順庵の下で白石は儒学・史学をよく学びます。また学問のかたわらには門人たちと詩を作り酒を飲んで、ワイワイと楽しくやりました。白石にとってはつらい生活の中で、せめてもの光明だったでしょう。

またも浪人する

しかし、いよいよ生活は苦しくなり妻子を養うのもキツくなってきました。

元禄4年(1691)35歳の白石は暇乞いをして掘田家を後にします。白石が掘田家に仕えたのは9年あまりでした。

35歳。現在も再就職できるギリギリの年齢とか言われますからね。さぞかし白石は前途多難を感じ、心細かったはずです。俺はこのまま一生浪人なのか、最期は野垂れ死にであろうか。そんなことも考えたでしょうか。

掘田家を後にした新井白石はどこへ向かったか?隅田川のほとりに小さな庵を築き、ほそぼそと私塾を開きました。近所の子弟に学問を教えるのです。そんな中にも白石は志を捨てず、いつかは世に出るぞ、天下国家のために働くぞという志を燃やしていました。

高い志にもかかわらず、世から用いられない。その鬱屈した気持を、詩にあらわしたりもしています。苦労したんですねえ…。しかし白石の私塾は評判よく、しだいに生徒が増えていきました。その中には旗本や大名家の子弟もいました。

就職を人に譲る

白石の師・木下順庵は白石を高く買っていました。この博学な男が浪人しているなんてもったいない。世の中にとっての損失だと。

そこで順庵は、元禄5年(1692)かつて仕えていた加賀前田家へ就職の斡旋をします。加賀前田家といえば百万石の雄藩。就職先としては最高です。しかも35歳の人生崖っぷちの白石にとっては、もう飛び上がるくらいの、いい話です。いよいよ運が向いてきたかに見えた白石。しかし、ここで思わぬ事態が。

「頼む!加賀任官の話、俺に譲ってくれ!」

同門の岡嶋仲通(おかじま なかみち)が、白石に頼んできたのです。母が加賀にいるので、どうしても任官したいと。すると白石は、

「わかった」

順庵からすすめられた就職をアッサリと断り、これを岡嶋仲通に譲りました。結局、岡嶋仲通は順庵の推薦により加賀前田家に仕えることとなりました。しかも白石は餞別の詩まで書いて岡嶋を送り出してやりました。

師の順庵はあまりのことに涙を流します。

「白石…お前というやつは…どこまで偉いのか」

解説:左大臣光永