紀伊国屋文左衛門の伝説

江戸時代の伝説的な豪商・紀伊国屋文左衛門についてお話します。

紀伊国屋文左衛門。

確かな資料は少なく、生没年も実在したかどうかもわかりません。

紀伊国屋文左衛門の物語は
講談や浪花節で繰り返し語られ、
「キブン」の愛称で親しまれました。

はじめての商い

伝説によると紀伊国屋文左衛門は
寛文5年(1665年)、紀州(和歌山県)に生まれます。

ある時、父が言います。

「いいか、お前に五十文やる。儲かったと思っちゃいかんぞ。
なんとかしてこれを、ふやしてみろ」

「わかりました父上」

少年は考えました。

(どうしたら一番儲かるだろう。
人に喜んでお金を払ってもらえるだろう…
しかも自分にできることで…)

考えたあげく、少年は五十文で竹竿を買い、
竹トンボを作って売り歩きました。

結果、一貫文を得ました。

「やりました!父上!売れました!」
「よしよし、その感じを忘れてはならんぞ」

一貫は1000文ですから、20倍になったわけです。
紀伊国屋文左衛門、はじめての商いでした。
いいお父さんですね。

紀州の蜜柑伝説

江戸では毎年冬に鍛冶屋の神様を祝う鞴(ふいご)祭りが行われます。
祭りの中で、ミカンをまいて参拝客に取らせる習慣がありました。
しかしその年は紀州への行路が嵐で閉ざされ、
ミカンの値段が高騰していました。

一方、紀州ではミカンが余り、値崩れしていました。

「江戸では高く、紀州では安い…
これは儲かる!!」

20代の紀伊国屋文左衛門は、借金をしてありったけのミカンを
買いあさり、仲間たちとミカンを船に積み込み、嵐の中、出航します。

「無茶ですよ!」
「無茶でも行くんだ。それが商売だ!!」

ゴゴーゴゴー 船はゆれ、
ザバンザバン 容赦なく浪が襲い掛かります。
船酔いで真っ青になっているものもありました。

しかし若き日の紀伊国屋文左衛門は、
ミカンに湿気がかからないように毛布をかぶせ、
必死にしがみつきます。

「この嵐さえ、この嵐さえ越えられれば!」

沖の暗いのに白帆が見える
あれは紀の
国みかん船

かっぽれ節に歌われています。

数日の後、雲間にすーっと太陽があらわれます。

「江戸だ。江戸についたぞー」

ミカンの不足していた江戸で、ミカンは飛ぶように売れました。
しかも、嵐の中を危険を冒してまで江戸にミカンを届けてくれたと
紀伊国屋文左衛門は一躍人気者になりました。

紀伊国屋文左衛門は、紀州と江戸の往復で得た資金を元手に
材木商をはじめます。

江戸は火事が多く、材木商が一番儲かったのです。

明暦三年(1657)明暦の大火ではわずかな手付金で
木曽の材木を買い付け、ボロ儲けします。

上野寛永寺の根本中堂を造営する際、
その用材を一手に受注し、幕府御用達の材木商人となります。

しかし深川の木場が火事で焼けてしまい、
材木商は廃業しました。

吉原の金まき

八丁堀に広大な屋敷を築き、同じく豪商であった
奈良屋茂左衛門(ならや もざえもん)と吉原で豪遊しました。

「ほうれ、いくらでも取るがよい。
ちゃらーーん、ちゃらーーん」

わーっ、きゃーっ、

郭を貸切り、金をばらまいて遊女たちに取らせました。

その贅沢っぷりを歌って言うことに、

そもそもお客のはじまりは、高麗(こま)もろこしは存ぜねど、いま日の本にかくれなき紀伊国文左でとどめたり。

さてその次の大尽は、奈良茂(ならも)の君でとどめたり

「ほう、そんなに景気がいいのか
紀伊国屋さんは」

評判が立ち、ますます取引が増えたということです。

東京都江東区の清澄庭園は、紀伊国屋文左衛門の屋敷跡と伝えられます。

宝永6年(1709))将軍徳川綱吉が死ぬと、紀文も奈良茂も没落したようです。紀文は綱吉が死ぬ直前に命じた十文銭の鋳造を請け負いましたが、綱吉の死後、それが通用停止になったことで大損を出しました。

これが原因で没落し、浅草浅草寺裏に移り住んだといいます。

奈良茂も、最後は落ちぶれて細々と足袋屋をやっていたようです。

これらの話はあくまで伝説であり、信憑性はありません。
そもそも紀伊国屋文左衛門という人物が実在したかどうかも
疑わしいと言われます。

しかし、当時武士にかわって商人が力を付けてきたことは事実で、
さまざまな商人の人物像をつなぎあわせて紀伊国屋文左衛門が
作られたのかもしれません。

解説:左大臣光永