井原西鶴と矢数俳諧

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五代将軍徳川綱吉の時代…

徳川の支配も安定期に入り、
世の中が平和になり、景気がよくなります。

もはや刀を持ってチャンチャンバラバラって
時代じゃないんですね。

武士にかわって商人が力をつけてきます。
デーンと大きな蔵をかまえて、手代を
何百人も使う商人も出てきました。

すると、金は余ってるし時間も余裕がある…
ひとつ、道楽でもたしなもうかな。

…こういう話になってきます。

戦国の世では考えられなかった
あらたな需要・欲求が生まれていたのです。

この需要にこたえる形であらわれたのが
「俳諧師」という世にも奇妙な職業です。

「俳諧」とは次々と句をつなげていくものです。

五・七・五、
さらに七・七、
さらに五・七・五、
さらに七・七と、つなげていくわけです。

百句つなげるものを「百韻」。
三十六句つなげるものを和歌の三十六歌仙になぞらえて
「歌仙」といしました。

普通は数人で行いますが、
一人でやる場合もありました。

でこの「俳諧」の場を仕切ったり
指導したりする職業が「俳諧師」です。

井原西鶴の矢数俳諧

井原西鶴(1642-93)。

大阪の裕福な商人の家に生まれます。
若くして家業は手代に任せて諸国遍歴の旅をしました。

かたわら、西山宗因談林派の西山宗因について俳諧を学び、
21歳で俳諧の点者となります。点者とは人の俳諧にチェックを入れて、
ここはいいですね。ここはダメですねと評価する人のことです。

西鶴の俳諧は、数と速さにこだわりました。
とにかくたくさんの句を、速く作りました。
十や二十ではないんです。

京都蓮華王院三十三間堂。
行かれた方はわかると思いますが、

あの長~い回廊。

端から端まできりきりきりきり、ひょーーーう、すとーーっ
と矢を射て、一昼夜でどれだけ射通すことができるか競う、
通し矢という競技があります。

寛文2年(1662年)尾張藩士星野勘左衛門1万125筋中、6千666命中。
貞享3年(1686年)紀州藩士和佐大八郎1万3千53筋中、8千133命中。
こういう記録が残っています。
たいへんな話ですね。西鶴はこの通し矢の俳諧版をやりました。

名づけて…
「矢数俳諧」です。

貞享元年(1684年)6月5日、大阪の住吉大社の社殿には、
43才の油の乗った井原西鶴がしゃんと正座していました。

西鶴の周りには六名の書記が、机を前に座っています。
社殿のまわりは数百人の見物人がごったがえしていました。

「あれが井原西鶴でっか」
「なにが始まるんでっか?」
「まあ、見ときなはれ」

などと言っている見物人をよそに、
井原西鶴、つぶやきます。

俳諧の息の根とめん大矢数

(私のこの大矢数で、俳諧の息の根を止めてやろう)

これを、さらさらさらっと書記が書き留めます。
書き留めたか書き留めないかといううちに、
井原西鶴、続きの句を詠みます。

すると、隣のもう一人の書記がさらさらさらっと
書留めます。書き留めたか書き留めないかといううちに、
井原西鶴、続きの句を詠みます。

すると、隣のもう一人の書記がさらさらさらっと
書留めます。書き留めたか書き留めないかといううちに、
井原西鶴、続きの句を詠みます。

五・七・五、
七・七

五・七・五、
七・七…

どんどんつなげていきます。
数秒に一句というすさまじいスピードです。

書き留めるほうも大変です。最初はまじめに記録していましたが、
しだいにミミズがはった字になり、
しまいには一句詠むごとに正の字を書いてカウントしていました。

「うわああ」
「人じゃないですな。こうなってくると…」
「名人というのは、こういうもんですかなあ」

目を丸くして見物している
見物人の中には、芭蕉の弟子、宝井其角の姿もありました。

一昼夜。井原西鶴、
ひたすら句を作り続けました。
秒速の速さで。

夜が白々と開け、朝が来て、朝が昼になり、
ふたたび日が暮れ、ゴ~ンと鐘が鳴った時…

「やったあああぁぁぁ!!」

ドターー

大の字になって
仰向けに倒れる井原西鶴。

見物人はとっくにあきれ果てて、帰っていました。

二万三千五百首。

一昼夜で。
たいへんな記録ですね。

もはや西鶴の記録に挑戦する者すらあらわれませんでした。

井原西鶴、つぶやきました。

射て見たが何の根もない大矢数

以後、井原西鶴は俳諧をやめ、小説…
浮世草子に転じます。

好色一代男、好色五人女など、主に色町の男女のありようを
テーマに作品を発表し、後には
『日本永代倉』や『世間胸算用』など、
現在でいう経済小説をも手がけます。

士農工商…商人はいやしいものだとされた時代に、
たくましい商人の生き様を、
ユーモアまじりに高らかに歌い上げたのは画期的でした。

解説:左大臣光永

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