松尾芭蕉の生涯(四)晩年

『おくのほそ道』以後

『おくのほそ道』の本文は大垣で終わっていますが、その後も芭蕉の旅は続きます。

伊勢の式年遷宮に参拝した後、故郷伊賀上野に戻り、さらに年内に 京都に出て大津、膳所をまわります。膳所の木曾義仲の墓のある義仲寺を拠点として、近江の門人たちに俳諧を教える生活が以後、三年ほど続きます。

その間、石山寺の近くの幻住庵という庵に住んだりしました。そばには紫式部が『源氏物語』の着想を得たという石山寺があります。

石山の 石にたばしる 霰かな

また嵯峨野の落柿舎という向井去来の住居に住まわせてもらい、嵯峨野を散歩してまわるのもの楽しいことでした。

嵐山 藪の茂りや 風の筋

(意味)嵐山の竹やぶに、風が吹いてきて、さわさわと揺れる。それが、風の道筋を示しているようだ。

あるいは堅田まで舟で弟子たちと出かけて、有名な浮御堂で月見を楽しんだりしました。

鎖(じょう)あけて 月さしいれよ 浮御堂

芭蕉は近江の人と空気がよほど気に入ったようです。深川についで長く滞在しています。

行く春を 近江の人と 惜しみけり

この句には、芭蕉の近江の地に対する、近江の人に対する愛情があふれています。

3年後、江戸に戻りますが芭蕉庵は人に売ってしまって、もうありませんでした。しばらく人の家に居候していましたが、杉山杉風を中心に弟子たちがカンパしてくれて、もとあった芭蕉庵のそばに庵を再建しました(第三次芭蕉庵)。

江戸に2年暮らすうちには体がだいぶ弱まってきましたが、元禄7年(1694)5月、大坂の門人たちが仲たがいをしているということで、仲裁のために大坂に向かうことになりました。

弟子たちは、あるいは品川まで、あるいは川崎まで涙ながらに見送りました。

「先生、お体に気をつけてくださいね」
「もう奥州に行った時と同じ体ではないんですから」
「わかってる、わかってるよ…」

実際、『おくのほそ道』の旅をした時のはずんだ足取りはありませんでした。一足ごとに、体の弱まっているのが実感されました。

麦の穂を 便につかむ 別れかな

(意味)私はよろめいて、思わず道端の麦の穂に取りすがってしまう。そんなにもわが身は衰えているのだ。それにつけても心細い別れだ。

ふたたび大津や膳所、堅田をまわり、次に故郷伊賀上野に墓参りのために里帰りしました。兄半左衛門も、ほかの家族もすっかり衰えて杖をついて白髪頭になっていました。つくづく、時の流れというものを感じる芭蕉でした。

家は皆 杖に白髪の 墓まいり

その後大坂へ向かう途中、奈良に立ち寄ります。猿沢の池のほとりを歩き、ちょうど九月九日重陽の節句だったので、寺寺を参詣してまわります。

菊の香や 奈良には古き 仏たち

そして大坂に入ります。大坂の門人たちの家に招かれ、
住吉の市、清水の茶屋・天王寺などを吟行しますが、
秋の風は冷たく、体にしみ、芭蕉の句もいよいよ寂しさを帯びてきます。

この道や 行く人なしに 秋の暮れ

秋深し 隣は何を する人ぞ

ついに下痢をして、どうにも動けなくなり大坂御堂前の花屋仁衛門の裏屋敷を借りて横になりました。

しかし体調は回復せず、芭蕉は弟子に筆を取らせると、「病中吟」とまず書いて、

旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる

これが実質的な辞世の句となりました。
元禄7年10月12日、51歳でした。

遺骸は「木曽義仲公の墓の横におさめよ」との遺言どおり、大坂から淀川を運び、伏見で陸揚げしたあと山を越えて膳所まではこび、義仲寺で埋葬されました。

芭蕉が心から愛し、深川についで長く滞在した大津膳所の地に、親愛する木曽義仲の墓の横に、芭蕉の墓は今も立っています。

解説:左大臣光永