松尾芭蕉の生涯(三)『おくのほそ道』の旅

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おくのほそ道の旅

月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。

元禄2年(1689)3月27日。

四十六歳の松尾芭蕉は門人河合曾良と共に『奥の細道』の旅へ出発します。深川の庵を出発し奥羽、北陸を経て美濃の大垣まで全行程約600里(2400キロメートル)、日数約150日間にわたる壮大な旅です。

それは西行、能因といった過去の文人たちの魂に触れる旅であり、ロマン溢れる歌枕の地を訪ねる旅でした。

草の戸も 住替る代ぞ ひなの家

(意味)戸口が草で覆われたこのみすぼらしい深川の宿も、私にかわって新しい住人が住み、綺麗な雛人形が飾られるようなはなやかな家になるのだろう。

隅田川に出た船は流れを遡り、日光街道最初の宿・千住へ。

行春や 鳥啼魚の 目は泪

(意味)春が過ぎ去るのを惜しんで鳥も魚も目に涙を浮かべているようだ。

日光で。

あらたふと 青葉若葉の 日の光

(意味)ああなんと尊いことだろう、「日光」という名の通り、青葉若葉に日の光が照り映えているよ。

那須野では、地元の人に馬を借りました。その後ろを、二人の子供がわーいと追いかけてくる。一人は女の子で、名をかさねといいました。

そこで曾良が、

かさねとは 八重撫子の 名成べし 曽良

(意味)可愛らしい女の子を撫子によく例えるが、その名も「かさね」とは撫子の中でも特に八重撫子を指しているようだ。

那須野にて。西行法師ゆかりの「遊行柳」の下で芭蕉は一休みして、

田一枚 植て立ち去る 柳かな

(意味)西行法師ゆかりの遊行柳の下で座り込んで感慨にふけっていると、田植えをしているのが見える。(私は?)田んぼ一面植えてしまうまでしみじみと眺めて立ち去るのだった

白河の関には平兼盛、能因法師、源頼政…昔から多くの文人墨客が訪れ、歌を詠みました。

芭蕉は彼らの歌の文句を織り込みながら、華麗な文体で語っていきます。

曾良が詠みました。

卯の花を かざしに関の 晴着かな 曾良

(意味)かつてこの白河の関を通る時、陸奥守竹田大夫国行(むつのかみたけだのだいふくにゆき)は能因法師の歌に敬意を表して 衣装を着替えたという。私たちはそこまではできないがせめて卯の花を頭上にかざして、敬意をあらわそう)

笠島は、藤中将実方の墓がある場所と伝えられます。芭蕉は雨の中、五月雨の中、中将実方の塚を訪ねていきましたが、ついにたどり着くことはできませんでした。

笠島は いづこさ月の ぬかり道

(意味)実方中将の墓のあるという笠島はどのあたりだろう。こんな五月雨ふりしきるぬかり道の中では、方向もはっきりしないのだ。

名取川を渡て仙台に入ります。画工加衛門という者が案内してくれました。別れる時、紺色の染緒のついた草鞋二足を餞別してくれました。

あやめ草足に結ん草鞋の緒

(意味)加右衛門のくれた紺色の草鞋を、端午の節句に飾る菖蒲にみたてて、邪気ばらいのつもりで履き、出発するのだ。

松島は今回の旅の目的地の一つでした。『おくのほそ道』冒頭にも、「松島の月まづ心にかかりて」とあります。丹後の天の橋立、安芸の宮島と並び、林春斎(林羅山の三男)によって日本三景の一つに数えられます。湾内には大小260あまりの島々があります。

松島ではあまりの景色の素晴らしさに、芭蕉は句が出てきませんでした。曾良が詠みました。

松島や 鶴に身をかれ ほとゝぎす 曾良

(意味)ここ松島ではほととぎすはそのままの姿ではつりあわない。鶴の衣をまとって、優雅に見せてくれ)

石巻を経て平泉に至ります。芭蕉は奥州藤原氏や義経主従の歴史に思いをはせて涙を流します。『おくのほそ道』の中でも屈指の名文です。

三代の栄耀(えよう)一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡(ひでひら)が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。先(まず)高館(たかだち)にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入。泰衡(やすひら)等が旧跡は、衣が関を隔てて、南部口をさし堅め、夷(えぞ)をふせぐとみえたり。偖(さて)も義臣すぐつて此城にこもり、巧名一時の叢となる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。

夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡

鳴子から羽前へ出る途中の尿前の関では、夜中、馬が小便をする音にすら芭蕉は風情を感じています。

蚤虱 馬の尿する 枕もと

(意味)こうやって貧しい旅の宿で寝ていると蚤や虱に苦しめられる。その上宿で馬を飼っているので馬が尿をする音が響く。その響きにさえ、ひなびた情緒を感じるのだ。

山形の立石寺(りゅうしゃくじ。現りっしゃくじ)では、

閑さや 岩にしみ入る 蝉の声

(意味)ああ何という静けさだ。その中で岩に染み通っていくような蝉の声が、いよいよ静けさを強めている。

最上川で。

五月雨を あつめて早し 最上川

(意味)降り注ぐ五月雨はやがて最上川へ流れこみ、その水量と勢いを増し、舟をすごい速さで押し流すのだ。

出羽三山…羽黒山・月山・湯殿山にも芭蕉は登りました。

涼しさや ほの三か月の 羽黒山

(意味)ああ涼しいな。羽黒山の山の端にほのかな三日月がかかっている。

そして最北端の地・象潟は松島、平泉と並んで「奥の細道」の旅の主要な目的地の一つです。

鳥海山の北西に広がっていた入江状の多島潟でしたが文化元年(1804年)の地震で湖底が隆起して陸地となりました。現在は畑の中に丘が点在する景色ですが、芭蕉の当時は入江でした。

象潟や 雨に西施が ねぶの花

(意味)象潟の海辺に合歓の花が雨にしおたれているさまは、伝承にある中国の美女、西施がしっとりうつむいているさまを想像させる。

北陸道に入って。

荒海や 佐渡によこたふ 天河

新潟の荒く波立った海の向こうに佐渡島が見える。その上に天の川がかかっている雄大な景色だ。

石川県小松市の那谷寺で。

石山の 石より白し 秋の風

(意味)那谷寺の境内にはたくさんの白石があるが、それより白く清浄に感じるのが吹き抜ける秋の風だ。境内にはおごそかな空気がたちこめている。

山中温泉で。曾良は腹を悪くして伊勢の知人をたよって先に出発しました。ここからは芭蕉と曾良は別行動となります。

今日よりや 書付消さん 笠の露

(意味)ずっと旅を続けてきた曾良とはここで別れ、これからは一人道を行くことになる。笠に書いた「同行二人」の字も消すことにしよう。笠にかかる露は秋の露か、それとも私の涙か。

道元禅師の開いた越前の永平寺も訪ね、気比明神に参詣し、敦賀の月を見て、種の浜を経て、美濃の大垣に至ります。

芭蕉は当初旅のお供として予定していた八十村路通はじめ、伊勢から合流した曾良、越智越人、近藤如行、宮崎荊口など多くの門人にあたたかく迎えられます。

蛤の ふたみにわかれ 行秋ぞ

(意味)離れがたい蛤のふたと身が別れていくように、お別れの時が来た。私は二見浦へ旅立っていく。もう秋も過ぎ去ろうとしている。

そして芭蕉は伊勢神宮の式年遷宮を拝むために、揖斐川を下り、また旅立っていくのでした。

「おくのほそ道」は、この旅を下敷きに文学的虚構を加え構成に工夫を凝らし、五年の歳月を経て完成され、芭蕉の死後の元禄15年(1702年)京都の井筒屋から刊行されました。

解説:左大臣光永

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