? 大宰府 | 日本の歴史 解説音声つき

大宰府

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大宰府政庁跡
【大宰府政庁跡】

大宰府の発祥? 白村江の戦い

660年、朝鮮の百済が新羅に滅ぼされます。すると百済の遺臣たちは
同盟関係にあった倭国(日本)に救いを求めてきました。

「百済は古くからのわが国の同盟国です。
捨て置くわけにはまいりません」

時の斉明天皇(女帝)はすぐに朝鮮に船団を派遣。

朝倉宮
【朝倉宮】

しかし、斉明天皇は遠征の途上、九州の朝倉宮で
68歳で崩御。

かわって皇太子の中大兄皇子の指揮のもと、
倭国の船団は朝鮮へ向かいます。

663年8月、倭国の船団は白村江沖で唐・新羅の船団と対峙。
正面突破を試みますが、猛烈な集中砲火を浴び、
打ち破られます。

663年 白村江の戦い
【663年 白村江の戦い】

「なに!わが船団が破られた!!」

へなへなと倒れこむ中大兄皇子を、
弟の大海人皇子が支えます。

「兄上、落ち着いてください。こうなったら百済の再興はあきらめましょう。
今は国内の守りが先決です」

「…そうだな。いつ唐や新羅が国内に侵攻してくるかわからん」

大宰府と水城・山城

唐・新羅の攻撃にそなえて、それまで博多にあった
役所の機能を内陸部の大宰府に移動させます。

これがいわゆる「大宰府」の起源だというのが定説ですが、
諸説あってハッキリとはわかりません。

翌664年、博多から大宰府へ向かう途中に「水城(みずき)」と
よばれる大規模な防塁を築きます。

水城
【水城】

水城
【水城】

現在、福岡市大野城市に「水城」という駅があり、
駅を降りるとこんもりとした丘の上に
樹木が生い茂っています。これが水城跡です。

また百済からの亡命技師の助力のもと、北九州から
瀬戸内海沿岸の各地に朝鮮式山城を築きます。

中でも、
大宰府北方の四王寺山(しおうじやま)山頂に築かれた
大野城は、いざ大宰府が陥落した場合にも
立てこもれるようにと築城されました。

(現在の「大野城市」の名のもととなっています)

大宰府政庁跡

大宰府の政庁跡は現在、広大な広場として残っています。

大宰府政庁跡
【大宰府政庁跡】

大宰府政庁跡
【大宰府政庁跡】

私は中学生のころ遠足で行ったのですが、
このたび20数年ぶりに行ってきました。

風が強く寒々としていましたが
小学生が野球をしていたり、犬の散歩に興じる主婦、
カメラをしょって撮影ポイントをさがす方、
うららかな日常の景色がありました。

ところどころに建物の礎石が残っており、
往時をしのばせます。

この大宰府政庁跡から
「歴史の散歩道」と名付けられた
遊歩道沿いに歩いていくと、

あちこちに万葉集の歌碑が立ち、
天智天皇が母斉明天皇をいたんで築いた観世音寺や、
吉備真備らとともに遣唐使として中国にわたった
僧・玄昉の墓など、見所が多いです。

観世音寺
【観世音寺】

玄ボウの墓
【玄昉の墓】

玄ボウの墓
【玄昉の墓】

のんびりした田園風景の中2キロほど歩いていくと
大宰府天満宮の参道に行き着きます。

九州を訪れた際には
ぜひおすすめの場所です。

都府楼址
  安西均

むかしここに大宰府政庁があった
身じろぎもせず眠っている
このさびしげな礎石のうえに
「遠(とお)の朝廷(みかど)」がそびえていた。

旅びとよ

見えざる朱の円柱にもたれて
しばしを憩いたまえ
見えざる甍を濡らす青磁の雨も
やがては霽(は)れるであろう
まぼろしの朱雀大路のかなたから
天の牛車も帰ってくるだろう
心しずかに砂の忍び音をききたまえ
千年の梅が香を襟に挿して
ふたたび旅をつづけたまえ

解説:左大臣光永

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