武烈天王

大臣・平群真鳥との争い

小泊瀬稚鷦鷯尊天皇(おはつせわかさざきのすめらみこと)こと武烈天皇は仁賢天皇の皇太子として仁賢天皇7年に立ちました。母は雄略天皇の皇女春日大娘皇后(かすがのおおいらつめのきさき)と申し上げました。この天皇はよいことは一つもせず、悪いことばかりであり極刑を好み、すべて残虐な刑罰をご自分でご覧になり、天下万民は恐れました。

仁賢天皇11年に天皇がお隠れになると、大臣・平群真鳥臣(へぐりのまとりのおみ)が傍若無人なふるまいをはじめます。皇太子のためといって宮殿を建て、自分が住まいました。

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皇太子は物部麁鹿火大連(もののべのあらかひのおおむらじ)の娘影媛(かげひめ)を娶ろうとされました。太子はあなたのことをご所望なのです。こんなにいい話はありませんよ。すぐに受けなさい。はい。あの…でも。

実は、影媛はすでに真鳥大臣の息子鮪(シビ)に犯されていました。影媛は太子との約束を破ることを恐れ、申し上げました。

「私は、海柘榴市の大路でお待ちいたします」と。太子はいよいよ結婚だということで、近くお仕えしている舎人を一人、平群真人のもとに遣わして、「馬を一頭差し出しなさい」とおっしゃると、平群真人は、「どうぞご自由に」とヘラヘラ答えるばかりで、いっこうに馬を差し出さないのでした。

「ううむ平群臣め。吾をはずかしめるのか。しかし今はガマンじゃ…」

太子はぐっと押さえて、影媛に求婚するために約束の場所に行き、歌垣の群集の中にお立ちになり、影媛の袖をとらえて、止まったり、歩いたりしてお誘いになります。その真ん中へ、平群臣下の息子鮪が割って入りました。

「ちょっとすみません」

「な、なんだお前は。あっ…平群真人の息子か」

「いかにも。私は平群真人の息子・鮪です。影媛には私が目をつけていたのです。いかな太子さまでも、ゆずることはできません」

「なんだと。それは通らない道理である」

「私だって譲れませんな」

「ならば歌で決着をつけよう」

「いいだろう。どちらが影媛を愛しているか、勝負だ」

こうして歌合戦となります。

歌合戦の中で、鮪臣は、すでに影媛に通じていることを自慢げに歌うと、太子は真っ赤になってお怒りになります。なんと無礼な父子であるか。もう許せんと。

その夜、太子は大伴金村連(おおとものかなむらのむらじ)の館へ行き、軍勢を集め、鮪臣の館に押し寄せ、鮪臣が逃げていくと、追っていき、乃楽山(奈良市平城宮跡の北に連なる山代との境の山)まで追い詰めて、鮪臣を斬り殺しました。

この時、影媛は愛しき鮪臣を追いかけていき、乃楽山までついていき、その殺されるところを目にすると、悲しみの涙にむせび、夫を慕う歌を詠みました。

石上《いすのかみ》 布留《ふる》を過ぎて 薦枕《こもまくら》 高橋過ぎ 物多《ものさは》に 大宅《おおやけ》過ぎ 春日《はるひ》の 春日《かすが》を過ぎ 妻隠る 小佐保《おさお》を過ぎ 玉笥《たまけ》には 飯《いい》さへ盛り 玉モヒに 水さへ盛り 泣き沾《そほ》ち行くも 影媛あはれ

(布留を過ぎて、高橋を過ぎて、大宅を過ぎ、春日を過ぎ、小佐保を過ぎ、美しい器には飯さえ盛り、美しい碗には水さえ盛り、泣き濡れていく、影媛の哀れなことよ)

「う…うう…」

愛しい人を失った影媛は埋葬をすませると家に戻り、嘆き悲しんで詠みました。

青丹《あおに》よし 乃楽《なら》のはさまに ししじもの 水漬《みづ》く辺隠《へごも》り 水漑《みなそそ》く 鮪《しび》の若子《わくご》を 漁《あさ》り出《づ》な猪《ゐ》の子

(乃楽山の谷に、鹿や猪のように、ちゃんと墓に埋葬されもしないで、水びたしの地面に埋められている若様を、猪の子よ、どうか掘り出してくれますな)

平群真鳥

冬11月11日、大伴金村連は太子に申し上げました。

「今こそ、賊徒真鳥を討つべきです。私にお命じくだされば、必ず討ち取ってごらんに入れます」

「うむ。天下は乱れようとしている。希代の勇者でなければ、これを救うことはできまい。お前こそ、天下に平和をもたらしてくれる者だ」

そうおっしゃって、供に真鳥を討つ計画をご相談なさいました。

こうして大伴金村連は軍勢を率いてワァーー、ワァーーと真鳥の館に押し寄せ、火を放ち、真鳥を焼き殺しました。

「ぐぬう。わが野望もここまでか。しかし、ただでは終わらん。あらゆる塩よ、呪われよ」

「何をタワゴト申すか。死ね」

「ぐぎゃあ」

こうして敵・真鳥大臣(まとりのおおおみ)は殺され、断罪は親族にまで及びました。しかし、死に際に真鳥大臣がかけた呪いにより、諸国の塩はことごとく呪われてしまいました。その中に真鳥は角鹿(つぬが)の海の塩だけを呪い忘れていました。そのため、以後角鹿の塩は天皇の食用とし、天皇は角鹿以外の塩を忌み嫌われました。

武烈天王の暴虐

12月、すっかり賊徒を平定し終えた大伴金村連は、天下の政を太子に奉還し、申し上げました。

「今、億計天皇の御子は、陛下しかいらっしゃいません。どうか位におつきください」「吾が帝位に!」「陛下以外に、誰がおりましょうか」「ううむ」

そこで太子は初瀬(はつせ。奈良県桜井市長谷(はせ))の列城宮(なみきのみや)に宮を建てさせ、即位なさいました。第25代武烈天皇です。即位した日に大伴金村連を大臣となさいました。

春三月、春日娘子(かすがのいらつめ)を召して皇后とされました。この天皇には残虐な行いが目立ちます。妊婦の腹を裂いて、胎児を取り出し、観察しました。人の生爪を抜き取って、その手で山芋を掘らせたりしました。

人の髪の毛をむしり取って、大勢を木に登らせ、何を始めるんだと不安がっている所に、木の根元にガシィ、ガシィと斧を入れ、ずずずーと倒れて登っていた者たちが死ぬのを見て、楽しみました。

人をしゃがませて、堤の樋(とい)の中に入らせ、すーーっと水に流されて、流れ出てきたところを三又の矛で刺し殺しました。

また人を木に登らせて矢で射殺して、大笑いします。馬と女を交尾させて喜びました。その時、まわりにいた女たちに股を開けと命じられ、じっくりと観察し、濡れている者はその場で斬り殺し、濡れていない者を召し使われ、これをもって楽しみとされました。

池を掘り園を造り、多くの鳥・獣で満たしました。狩を好み、犬を走らせ馬と競わせました。宮中への出入りは時を選ばず、大風・大雨もかまいませんでした。温かい衣を着て、百姓がこごえていることはまったく考えず、美食にふけり、天下万民が餓えていることなど、お構いなしでした。

道化や俳優を集めて華やかな音楽を奏で、かわった芸事を行わせ、退廃的な歌を歌いまくり、昼といわず夜といわず、官人たちと酒にふけり、贅沢な絨毯を敷物としました。衣類には絹や綾を用いるものが多くありました。

こうして贅沢と暴虐の限りを尽くした武烈天皇でしたが、初瀬の列城宮(なみきのみや)で崩御されました。陵は傍丘磐杯丘陵(かたおかのいわつきのおかのみささぎ)。奈良県香芝市今泉にあります。跡取りはありませんでした。

≫次の章「継体天皇」

解説:左大臣光永

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