アテルイと坂上田村麻呂(二)第二次・第三次征討

こんにちは。左大臣光永です。
いよいよ桜も花開き、東に西に花見で
ソワソワする季節ですね!私は今週京都・奈良に
行ってきます。高瀬川沿いを缶ビール飲みながら
ぶらぶら歩くのが、毎年春の楽しみです。

さて本日は
「アテルイと坂上田村麻呂(二)第二次・第三次征討」です。


京都清水寺 アテルイ・モレ顕彰碑(2015/9 撮影)

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第一次征討軍の帰還

延暦8年(789年)9月。

東北でアテルイに大敗北を喫した征東大使・紀古佐美(きのこさみ)以下の
軍勢が、長岡京に帰還します。

帰還した紀古佐美はじめ副将軍たちを待っていたのは
朝廷からの厳しい追及でした。

「そもそも衣川で一か月も浪費する必要があったのか?」

「はっ、それは、なにぶん敵の情報を集めるための時間でして」

「一か月は長すぎたのではないのか?」

「はっ、それは、長いといえば、そうも言えましょうか」

「一時の勝ちにおごり高ぶり、味方を壊滅させた件については?」

「それは、なにぶん、私としても、敵がああ出てくるとは
予想外のことでして」

「予想外!貴重な臣民を死に至らしめておいて、
予想外とは何事か」

「あっ、いえ、それはもう、責任は重々」

結局、征東大使・紀古佐美以下
多治比浜成をのぞく三名の副将軍(征東副使)が
責任を問われ左遷されました。

第二次征討

しかし手痛い敗北だったにも拘わらず、桓武天皇は強気でした。

「なに、これで敵の様子がわかったというもの。
次の勝利に活かせばよいのだ」

翌延暦9年(790年)はじめから、
政府は次の蝦夷征伐への準備に取り掛かります。

四年後の出発をめどに、
今度は以前の倍の10万人を徴発することになりました。

「蝦夷征伐は国家の急務。つどえわが臣民!」

桓武天皇は諸国によびかけましたが、
農民にしたら迷惑な話でした。

「やれやれまた戦かよ」
「奥州てえのは寒いんだろ。やだよ俺寒いとこ」
「でもお上にはさからえないからなあ…」
「やれやれ収穫もメチャクチャだ」

などという庶民の怨嗟の声はかまいもせず、
やるのでした桓武天皇は第二次蝦夷征伐を。

翌延暦10年(791年)7月。

朝廷は大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)を征東大使に、
百済王俊哲(くだらのこにきし の しゅんてつ)・
多治比浜成(たじひのはまなり)・
坂上田村麻呂・巨勢野足(こせののたり)を征東副使に任じます。

そして満を期しての延暦13年(794年)元旦。

「大伴弟麻呂。
そなたに征夷大将軍の証たる節刀をさずける。
必ず蝦夷を征伐して帰還するように」

「ははっ」

10万の軍勢を率いて東へ向かいます。
大伴弟麻呂の下で実際に指揮を執るのは副将軍坂上田村麻呂です。

ちなみにこの前年に遷都が決定され、
すでに長岡京から平安京への首都機能の移動が始まっていました。

ここで坂上田村麻呂とアテルイの戦いを
生き生きと物語りたいのは山々ながら、
残念なことに『日本後紀』にはその部分の記録が欠けており、
どんな戦いだったのか、まったくわかりません。

とにかくこの年の10月には大伴弟麻呂は平安京に帰還し、
戦いの様子を報告して言うことに、

斬首457人。
捕虜150人。
馬85匹。
蝦夷の村75か所を焼いたと。

「たったそれだけか!」

桓武天皇はガックリと肩を落とされたかもしれません。
十万の兵力を動員した成果としては、期待はずれな結果でした。
しかも蝦夷の一番の本拠地である胆沢城は落とせずじまいでした。

第三次征討に着手

「蝦夷は思いのほか手ごわい。アテルイという族長も気になる。
だが、手を引くことなど考えられない」

桓武天皇は、あくまで蝦夷征伐に執着なさいます。

前の第二次征討から二年目の延暦15年(796年)。

桓武天皇は坂上田村麻呂を陸奥・出羽両国の
按察使(あぜち。地方行政官)に任じ、
陸奥守に任じ、さらに鎮守府将軍に任じます。

「田村麻呂。前の第二次征伐での働き、吾は高く評価しておる。
かならず今度こそは、蝦夷討伐を成し遂げてくれ」

「ははっ、お任せください」

坂上田村麻呂

坂上田村麻呂は天平宝字2年(758年)、
坂上苅田麻呂の次男として生まれました。

坂上氏は帰化人である東漢(やまとのあや)氏に属し、
代々武勇で知られた家系です。

田村麻呂の四代前の坂上老(さかのうえのおきな)は
壬申の乱(672年)で大海人皇子について功績を上げました。

田村麻呂の父苅田麻呂は764年藤原仲麻呂の乱では
孝謙上皇の勅命のもと、敵方に奪われた玉璽と駅鈴を奪い返し、
仲麻呂の野望を未然にふせぐことに功績がありました。

代々、武勇の家柄なのです。

ちなみに百人一首に歌を採られている
坂上是則(さかのうえのこれのり)は、
田村麻呂の5代目の子孫とも言われています。

田村麻呂自身は近衛将監(このえしょうげん)という
下級の武官からキャリアをスタートし、
近衛少将、ついで越後の介(次官)、
越後守(長官)に至った時、33歳でした。

そして、前の第二次蝦夷征討において
四人の副将軍の一人として参加し、
その活躍の記録は残っていないものの、
おそらく大きな武勲をたんでしょうね。

桓武天皇の信頼を得て、次の第三次征討を
征夷大将軍として導くことになるのです。

懐柔工作

延暦16年(797年)11月。

坂上田村麻呂は征夷大将軍に任じられます。

四万人を動員しての第三次征討は迫っていました。

しかし、十分に下地を整えてからと、
田村麻呂は伊治城(いじじょう)を拠点にして
地道な懐柔工作を続けます。

「アテルイなどに味方するな。朝廷に叛くとロクなことにならんぞ。
逆に言うことを聞けば、いい暮らしを約束しよう」

「あんなこと言ってるけど、本当かなあ」
「わからんが、もう貧乏はコリゴリだ。おいらもいい暮らしがしたい」
「アテルイ様には悪いけど…」

などと、一族を裏切り、朝廷側に下る者が相次ぎました。

第三次征討

延暦20年(801年)2月。

いよいよ坂上田村麻呂は桓武天皇から節刀を授けられ、
第三次蝦夷征討に向かうこととなりました。

「では田村麻呂。武運を祈るぞ」
「ははっ。必ずや」

以後の戦いは、記録がまったく欠損しているので
具体的な内容はまったくわかりません。

が、朝廷軍は蝦夷の拠点であった胆沢(いざわ)を制圧し、
さらに北の閉伊村(へいむら)まで至ったことがわかっています。

蝦夷の開墾した土地を蹂躙し、村々に火をつけ、
金品を略奪し、殺戮の限りを尽くしたことでしょう。

多くは殺され、生き延びたわずかな者は族長アテルイの指揮のもと、
さらに奥地の山岳地帯へ逃げのびていったことでしょう。

この年の11月の末には戦いは終わり、
田村麻呂は凱旋将軍として平安京に帰還しました。

悦びをもって迎える桓武天皇。

「田村麻呂の働きたるや、すこぶる見事。
貴君のような臣下を持ったことを、
吾は光栄に思うぞ」

「はっ…恐縮です」

しかし、田村麻呂の心に何となく晴れない、
一抹の疑問がありました。

あれほど豊かな胆沢の地を蹂躙し、
無抵抗の村人を殺戮し、村々を焼き払ったことは、
たとえ君の勅命とはいえ、正しいことだったのだろうか…

それにあのアテルイという族長。
撤退の指揮も堂々たるものであった。
男気のある勇者の風であった。
できれば生き延びていてほしい…

などと考えたかはわかりませんが、

アテルイ降伏

翌延暦21年(802年)坂上田村麻呂は朝廷に命じられ、
ふたたび胆沢の地に向かうこととなります。

占領地に城を築き、あらたに植民を行うためでした。

官人に連れてられて各地の浮浪人が胆沢の地に入植し、
かつて蝦夷が開墾した田畑を割り当てられました。

新しく築かれた胆沢城は、以後、多賀城にかわって
東北地方最大の軍事拠点となっていきます。

部族の誇りであった胆沢の地に
次々と朝廷軍が入りこんでくる状況を見て、
首長大墓公阿弖流為(たものきみ・アテルイ)と
盤具公母礼(いわとものきみ モレ)は、
500名を率いて降伏してきました。

「我々はどうなってもかまわん。
部下に危害を加えないでくれ」

「あなたがアテルイか。一度じっくり話してみたかった。
部下の安全は保障する」

助命嘆願

田村麻呂は快くアテルイとモレの申し出を受け入れ、
その年の7月、二人を連れて平安京に帰還します。

朝廷の百官は大喜びします。

「ようやく蝦夷との戦が終わったか」
「もう抵抗する者はあるまい」
「ああよかった」
「では、反逆者アテルイとモレに死を」
「それは当然です」

しかし、坂上田村麻呂はこれに反論します。

「アテルイは部族を守り、正々堂々と我々と戦いました。
あのような勇者を私は知りません。
どうか、命ばかりはお助けください」

「ならぬならぬ。反逆者を助けるなど」
「二人は朝廷にさからった張本人ではないか」

「しかし…」

「将軍は、我々の言うことに従っておればよいのだ」

「……」

田村麻呂がいくら助命を求めても、聞き入れられることは
ありませんでした。

この年の8月。アテルイとモレは河内国杜山で斬られます。

京都の清水寺は坂上田村麻呂がその創建に深くかかわった寺ですが、
清水寺の一角には、平安京遷都1200年を記念して
1994年(平成6年)「アテルイ・モレ顕彰碑」が建てられました。


京都清水寺 アテルイ・モレ顕彰碑(2015/9 撮影)

志波城築城

翌延暦22年(803年)には、田村麻呂は再度朝廷に命じられ
東北へ赴き、胆沢城のさらに北方に志波城(しわじょう)を築きます。
岩手県盛岡市の西の郊外で、現在「志波城古代公園」として整備され
櫓や塀が復元されています。

46歳の将軍坂上田村麻呂の額には疲労の皺が刻まれていました。
当時としてはかなりの高齢。このまま北方の地に骨を埋める覚悟も
固めていたかもしれません。

しかし、歴史は田村麻呂にさらなる働きを求めます。
それはこれより7年後。

嵯峨天皇と平城上皇との間で争われる、大事件において、です。

≫次の章「最澄と空海」

解説:左大臣光永

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